身体

明日、本番です。

以下は7/9に書いたもので、倉庫に入れておいたもの。

バビロンに下見に行く。素舞台で見るにははじめて。岡村さん、吉村さんともろもろ話す。先日も、とある件で電話して、二時間ほど、もろもろ、話す。なんでこんなに話すことがたくさんあるのだろうと、別れてからあらためて思う。
 結局、同業者だから、ということなのだろう。普段は自分のことを、「舞踊家」だとか「舞台人」とかセルフラベリングするのが嫌なので、あまり意識することもないのだが、このような会話の経験によって、ああ、なんか、着実に、時を重ねていっているのか、と思う。
 最近の稽古、つまり「歴史」創作のための稽古のなかでやっていることは、舞踊なるものの全面的見直しである。むろん、全面的といっても、自分の経験してきたこと、知っていること以上のことの再確認と検討のことであるから、舞踊全般の話では毛頭ない(って、誰もそんなつっこみしないだろうけど)。
 いわゆる「作品作り」というのを止めて、舞踊とはなんのことをいうのか、それを延々問い続けている。舞踊というのが、ある現れ(現象)だとすると、それはなにが現れているのか、あるいは反対に、なにか隠されるのか。舞踊なるものが、例えば運動像(image)だとすると、それはなんの像あるいは痕跡(これもimage)なのか。素材は様々あれど、なによりも、素材とは、身体である。もちろん、これも、身体とはなにか、ということになる。
 いろいろ作業の過程に応じて、そのつど問題も認識も変化していくのだが、およそ30項目位の大テーマがまとまり、そのひとつひとつが、一年あるいは三年あるいは20年かけて追求するに値するような基礎的なものであり、やる気になる一方、ふっと途方にくれることもある。もちろんそのなかには、時間や空間や延長や線や質量や像や観察や思考や存在や現前や反復など、これまたいわゆる哲学的に見ても根本問題といえるようなものが、穿れば穿るほど、まさに芋のように出てくる。収穫祭的な感じで、そのような問題と出会えることは嬉しく、そしてもちろん、それらを舞踊において、いかに実現するか、というのを、延々時間かけてやっているのだが、そのような実践の努力は、それ自体、楽しい。苦しさというのは、そうした作そのものから生じることはあまりない。上演が他者にいかに評価されるか、といった、社会的な次元の問題に移ると、懸念が出てくるのだ。こうしたことは、なんであれ、人間の行う行為は社会的なものである以上避けられないし、そうした社会的な折衝をも、作業=行為の内的要素と見なす必要がある。とはいえ、それをあんまりやると、文字通り、本末転倒になる。倒錯だ。
 
 さて、舞踊の基底のひとつとして、身体あるいは身体性というものがある。
舞踊がなんであるかを問うなかで、当然、身体は、いわば基礎論としてそれがなんであるかを明らかにする必要がある。そうしないと、自分で行っている行為つまり舞踊において、自分がなにをやっているのかを認識できない。とはいえ、どのような態度あるいは関係をとるのかは選択の自由である。たとえば、身体は徹頭徹尾、無意識の領域になるのであり、それはつねに認識の外部にあり続けるかのように、逃げさる、という具合に、いわば身体自体というものを想定することもできる。それもまた正しいのかもしれないし、そうではないのかもしれない。それは分からない。分からないものが、身体だ、とかいう具合に考えることもできる。
 かく思考が自由度が高いのに対して、身体は不自由であるようにも思われる。あるいは逆かもしれない。
 身体を操作することが身体を認識することであるのかもしれないし、あるいはそのような操作では、到底、理解できないのかもしれない。
 このような理論的問題への解答というのは、思考の職人である哲学の仕事であると、分業制度は語るだろう。
 だが、舞踊家は、自身の舞踊を行為することにおいて、それを実践するのであり、その行為についての責任がある。
 責任とはなにかといえば、呼応可能性、つまりは説明責任なのだろう。
だとすれば、説明できないからといって、そのことに居直ることなく、説明への努力を怠らないことが、身体に関する倫理のひとつであるのだろうか。
 ロラン・バルトは、トゥオンブリ論のなかで「トゥオンブリは、不器用な書を生み出すことによって、身体の倫理を混乱させる」と書いたが、なぜ不器用であることが価値があるかといえば、それは硬直した身体倫理あるいは規範や規律から逃れ、別のあり方を模索すること、そして別様に身体への関係を作ることができるということを、証明するひとつの方法であるからだ。
 舞踊が示すひとつに、身体がどれだけ変様するかの明示、がある。社会化された身体図式および運動図式というものが、ある程度固定されないと、社会は存続しない。だが社会もまたある程度固定されながらも、つねに動いている。このような社会の特性を、社会の身体といっていいのかもしれないが、社会の身体もまた、変様するのである。
 舞踊が限定し集中して行うことは、社会のなかでは、身体の可塑性を明示することで、社会もまた可塑的であるということを暗示する。
 この可塑性の認識は、実際、舞踊を見る快楽のひとつである。こんな動きもあるのかと、自分の認識があらたまることは、自分自身の可塑性を認識することにもつながっていく。