矢作俊彦「ららら科學の子」

 矢作俊彦の「ららら科學の子」読了。滋味あふれる美しい文体で丹念に時間のひだを開いている。ただこの本は舞台である東京のローカルレポートであり、それはそれでいいのだが、東京に住んだことのないひとにはまったく読めないのではないかと思う。村上龍の「半島を出よ」と比較することが間違っているかもしれないが、またそのスペクタクル趣味は嫌うひともまたいるのかもしれず、またいくつかの描写(危機対策会議の悪い意味でのマンガ(キッチュ)性やコスプレへの揶揄や、挿入される典型的なメロドラマなど)についてはひっかかるものの、アクチュアル/ヴァーチャルの往還のドラマ的な醍醐味という点では、後者の方がすぐれている。もうすこしいえば、「ららら科學の子」はすばらしい作品には違いないものの、プロットをもっと面白くすることもできたのに、と思う。もっとも、作家の意図はそのようなプロットあるいはドラマの論理にではなく、ある時間の記述にあったのだろうから、そこはないものねだりであるかもしれない。
 太子堂のあたりのくだりとか、昔世田谷区の世田谷に住んでいたこともあり、1990年代のあの地域の変貌が、私の知らないもっと前の1960年代のころと重ね合わされ、なにかしらが腑に落ちる。
 この読書と同時的に、sくんやoくんらと話し、東京/関東で育った彼らの幼年期は、「ドラえもん」的だなと思う。私はといえば、それよりもっと古い、「あしたのジョー」に出てくるようなスラムの光景などがしっくりくるような、それとともにあるいは大林宣彦の「時をかける少女」で描写されるような空気と場所に育った。