「民族責任」

三橋先生の夜ゼミに最近再び参加して、ああとても懐かしいゼミナールです。
対象本は、鈴木道彦「越境の時」。

越境の時 一九六〇年代と在日 (集英社新書)

越境の時 一九六〇年代と在日 (集英社新書)

当事者でもあった三橋先生の話は次回以降に持ち越されるが、次回は仕込み日なので参加できず。
 つい話題に流され、民族差別・人種差別の時代的経験の話しを聞きだすのを怠ったけれど、この新書は広く読まれるべきだろう。
 ネット右翼の猛烈な差別主義とは、日本帝国主義の亡霊に他ならないが、まあネットをあまりしないひとには、まったく遠い声のようだ。ゼミ参加者のほとんど誰もネット右翼について知らず。まあネット右翼など、その程度の社会性ともいえるが、やはり連中の売国奴・恥知らず振りには、一国士として、本当に恥ずかしい。
 もちろん、中国や韓国の言い分には批判的に応答していくべきではある。理念なき現実的な保守主義がだめなのは、自己愛にはじまり、自己愛に終わるからだ。
 この著者は、末尾で、「パッチギ」などを見ると、「もう自分の幕はない」とおっしゃるが、日本が中国、韓国、台湾、フィリピン、インドネシアときちんと向き合っていき、それこそ、互いに矜持を持って、関係をつくれるまでは、これらの問題の幕は下りないのですが。まあ、これはわれわれ後続世代の課題であるが。
 「民族責任」「集団責任」論というのは、それにしても、まず「責任」の概念を論じる必要があるように思う。「責任」というのが、「謝罪」とか「自死」とかそういう像で機能しているわけなので。「責任」とは、呼応責任であり、説明責任であり、つまりは対話をすること、し続けることである。
  同様、「反省」というのも同様の感情的機能を果たしていて、今日の死刑論(「論」というか、「被害者感情」の絶対視=増幅)もそうなのだが、どうしてもこうも「論理」より「感情」なのか。
 感情の問題は、実際にまじめに考えると大変ではあるが、問題はそこで思考が停止することである、と私は思う。(もっとも、触発され、忘れていたあるいは抑圧されていた感情が吹き出して行くことなしに、私も人生を作り直すことはできなかった。感情のディレクションの問題か。)
 それでは、いくら被差別者に「共感」したところで、そんな感情などいらない、とはねつけられるだけではないのか。(大江健三郎へのキム・ジハの発言)すくなくとも、安易な「共感」や「善意」は、このような抵抗をうけると、なにも応答できない。あるいは逆ギレしたり。
 このへんは、だからこそ、いわゆる「身体性」が鍵となる。身体でどこまで受け取るか、ということになる。
(→感情と身体との関係はどうなのか。感情は身体の一部なのか。純粋な意識(があるとして)に属するものか。心身問題、あらたに研究しないといけない。)
 

 むろん、最低限、という意味での他者への共感が好ましいということはあるものの、しかしそこには経験やある人々や言葉との出会いが前提とされるのであるし、想像力もふくめた、リテラシーが前提とされるはずで、…と考えていくと、教育、ということになるのだが、どれだけ「いい教育」を施したところで、社会機構そのものが旧態依然であるかぎりは、ということになる。結局、この「教育」と「社会」の矛盾・ギャップが、さまざまな犯罪なり反応なり徴候をもたらしている。
 とりあえずメモ出しすると、やはり教育機関はできるだけ縮小し、むしろ社会全体(会社、公共施設、家族など)に教育理念が埋め込まれていった方がいいのではないか。いや、違う。上意下達的な「教育」でなく、やはり「対話」、あるいは「おしゃべり」と区別される意味での「議論・論議」が埋め込まれていかないと、どうにもならない。この観点からすると、ブログ・SNSによるコミュニケーションメディアの変革は、大変好ましい。
 
 また、現在私が制作の手伝いをしている「アジアトライ」にせよ「アジアミーツアジア」にせよその他の企画にせよ、さまざまな媒体を通して、出会い、会話し、一緒に仕事をし、時には衝突にもなるが、それを乗り越えていく、ということは、これからもそうだったのだろうが、これからさき、もっともっと重要になるだろう。
 ですので、「アジアトライ」をご鑑賞予定のみなさんはぜひ残って、インドネシア、韓国のひとたちと終演後など、話すといいと思います。
 
 これまで私的な会話ではいってきたことではあるが、やはり日米軍事同盟を解除しないことには、ねじれた「国民主義」とそれに対応したねじれた批判運動も、展望を持てない。いいかえれば、日米関係の検証と改善、あるいは資本主義的ニヒリズムの分析と代替案の創出、ということになる。
 シニシズムは無視。(というか、シニシズムは単に資本主義的ニヒリズムの一変種である。)