AGPAA理論部会発足にあたって

次回会議では、前々回までの会議で提案されていた「ゼミナール・講座・読書会」を試験的に開始します。この企画は現時点では「理論部会」と称しています。
 さしあたって、理論部会で検討されるのは、広義における舞台芸術を巡る著作です。既存の著作を共同で検討するなかで、現在の状況を分析し、変革していくためのヒントを見出し、これまでAGPAAで討議されてきた諸問題を矮小化せずに、より大きな文脈のなかで考えを強めていきたいというのが趣旨です。また、今日の日本の舞台を巡る言説がいまだに印象批評を中心に、前時代の理論図式を疑うこともなく踏襲しているような有様に対し、新しい観点や考え方を示している諸著作を、「単に読む」ことが、そのような状況の「貧しさ」を相対化し、また、なんらかの形でわれわれの潜勢力を引き出していく契機になるのではないかと思います。
 神話的に参照されるいわゆる「アングラ黄金期」の歴史を少しでも紐解けば、あの時代の特性もさることながら、なにより、過剰なまでの「知識欲」が背景としてあったことも想起されます。「実態は大したことなかった」と嘯くひともありますが、そのような嘯きは、それを誰が発言するかということにもよりますが、当時の実態を指示していないというだけでなく、場合によっては、後続者すなわち現代を生きるわれわれに対し、抑圧的に機能することもあります(「理論なんて無駄」「勉強なんてするな」などの考えなど。このような物言いの実態は、新しい事態に対応できない自身の無能さを再認することをあらかじめ回避しているだけの弱い自己愛に導かれたものでしかありませんが、構造的には思考を去勢することを要請する今日の資本主義イデオロギーに乗ったものともいえます。そのような考え方を採用し、発言をするひとが後を絶ちません)。しかし、主観的な感慨や、自己愛に発する郷愁的な回顧、あるいは「趣味」の押しつけなどはもはや必要ないと思います。もっともそのような愚かさは自ずと消失していくとも思えますが、世界の愚かさが増していく現在、そのような楽観は危険ともいえます。わたしたちに必要なのは、この困難な時代をいかに生き抜くのか、その道筋を示すような道具あるいは武器であり、実際的な戦略です。
 もう一点あらかじめいっておくと、「理論」に対する嫌悪感・不信感がしばしば散見されますが、まずどのような考えもなんらかの「理論」に基づいている、ということがあります。理論嫌悪の型はいくつかありますが、それらはすべて、自分の採用している「理論」(「信条」)と異なる「理論」への嫌悪です。つまり、その実態の多くは、自身と異なる考えに対する嫌悪感です。この悪感情に浸るかぎりは、おそらく対話は不可能です。今日、「対話」が様々な局面で求められているなか、自分の「主観」に閉塞することは、しばしば陥る陥穽ですが、そのことがもたらす悲劇の事例はいくらでも挙げることができます。米国の単独行動主義はその最たるものといえましょう。また無責任で卑劣な「ネット右翼」も、主観的な不安感情を基盤とし、ほとんどその感情を吐露しているだけの素朴な「理論」ないし「論理」ですが、その害悪ぶりについては、周知のことと思われます。

口上はこれくらいにして、対象図書は参加者が各自の関心に沿って選び、その内容要旨と見解を発表し、参加者で討議する、というごく一般的な形式をとる予定です。
 皆様のなかで、この図書を読みたい・検討したいという提案がありましたら、次回以降の理論部会で提案していただくと幸いです。

次回は、私脇川がイタリアの政治哲学者ネグリの演劇論について発表します。AGPAAの母体でもあった2003年東京で開催された「ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド」と時を同じくして、ネグリは、ドイツの演劇祭などで講演していました。なかでも講演「<帝国>と戦争」はまさにハイナー・ミュラーに関するものです。


◆対象図書:
アントニオ・ネグリ講演集2『<帝国>的ポスト近代の政治哲学』ちくま学芸文庫に収められた次の三つの講演について発表します。
a.「マルチチュードと生権力」2003,12/12,ハンブルク劇場
b.「<帝国>と戦争」2004,1/10,ベルリン芸術アカデミー<ハイナー・ミュラー会議>
c.「俳優と観客:非物質的な労働、公共サービス、知的協働、共同的なものの構築」2004,6/13,ハノーファー<テアター・フォルメン・フェスティバル>

ネグリ来日
全くの偶然ですが、折しもネグリが来日するそうです。
2008.3月末 於 上野 東京藝術大学
詳細はhttp://negri.jugem.jp/ にて。