責任の分有と市民的主体

裁判員制度を巡って例の如くぎゃあぎゃあ不満をいうひとびとがいる。
むろん、課題はある。が、裁判員制度は、市民的主体を構築するためには必要な実験である。
 ぐだぐだいいたいところだが、一言でいえば「殺せ!殺せ!極刑だ!」と叫ぶ主体に、そこまでいうならぜひ市民としての判断責任をとってくださいということ。
 
 市民すなわちわれわれのなかに住む病魔、たとえば差別主義ということでいえば、米国の陪審員が人種差別的な判断を下したりすることがあるということを当然考慮しなくてはならない。
 だけどそれでもなお、判断する責任を社会で分かち合うという感覚はやはり必要なのだ。
 だれか(お上)が代行して「やってくれる」という愚かしく権力に追随し、結果、自分は匿名性のなかに保存し、「ああいい心地のわがニッポン」などとうそぶく、そんな無責任主義的な主体を解体する必要については、1945年の時点でわかったはずではなかったのか。
 信長に弾圧され秀吉に武器を奪われ、徳川家に何百年も搾取され、大日本帝国に犬として扱われたわれわれの、犬としての歴史…。

 なんでも非自発的な市民に裁判員であることを強制参加させることは憲法違反とかいう馬鹿もいたみたいだ。徴兵制のようだと。
 形式的類似と実態とを混同する理由には、犬としての歴史を見ていないこと、市民の抵抗権を認めないジョン・ロック以前の心性がみてとれる。
 判決を下したことによる報復とかのリスクも当然ある。だから、そういう感情的な報復をなくすための実験なのだ。

 一番いわれているのは、仕事とのかねあいだが、企業の利益よりも市民社会の構築の方が重要なのだという観点から、国は企業に説得なりなんなりの努力をする必要がある。
 
 またメディアスクラムへの懸念などもあるようだが、これ本気でいっているのか。いままでどれだけメディアスクラムが行われてきたか?
 
 結局、日本国民が犬であり市民的主体でないのも、市民革命を経験できなかったことによるのだが、他方、米国に顕著なように、市民武装の歴史が銃社会を生んでいること、しかしまた同時に相互扶助の精神があり、しかしまた同時に「市民」として認めたくない非白人への人種差別などがあるわけで、もちろん彼此の内、むこうが優位とは必ずしもいえない。
 が、いまの閉塞し不安におびえつまりは卑屈な心性は、漸進的な社会実験で変えないといけないのはたしかだ。
 …とはいえ、そんな実験を「お上」からもらうというのがそもそも癪なのではあるが。