マレー/末羅瑜

さっそく紐解くとおもろいなあと思うことが書いてある。
松田寿男「古代のマライと東西交通」。
マレーが漢土の文献に初出するのは唐の時代、義浄「大唐西域求法高僧伝」および「南海寄帰内法伝」で、末羅瑜、末羅遊とあるらしい。
以降、摩羅遊とか、イスラム地理学ではマラーユル(Malayur)元時代には麻里予児。
考証はどんどん続くが、この末羅瑜で思ったのは、倭国の末羅。

中国人にとって九州もマレーも似たような周縁地域だからねと終わらせたくはない。

想像するのは、マレー系のひとが末羅つまりいまの九州北部に来てたかもということ。
古代の話である。

後の貿易の過程で、あるいは海賊の活動によってひとびとが往来しているのは明らかなのだが、海の道が古代でも盛んなのは考古学ではもはやはずせない点である。

もっとも、マレー半島と九州島との間には、ボルネオ島フィリピン諸島、台湾、沖縄諸島があるのでそれらを経由してのこと。

倭国の風習には顔などへの入れ墨があった。
この入れ墨については多くの人類学/民俗学者が相当数の論文を書いておられる。

はてヤマト統一後、入れ墨はどこへいったかといえば海民であるが、中央政権ではまったく消えたのだろうか。
これを調べるとなると気が遠くなる。

戻ると、古代マレー系文化や古代台湾史、古代フィリピン史などを探ると面白いだろうがどうなのだろう、当時の文字資料などは中国以外ではどの程度あるのだろうか。