天竜・浜松

 三日金曜日、左門くんと浜松で待ち合わせ。はやく着いたので、駅前で鰻を食べる。新浜松駅前の左門くんは毛布やリュックや段ボール箱を持ち、重装備。何事かと問うと、このあと屋久島に行くのと、絵本「おつきさま すーやすや」が刷り上がったらしい。
 遠州鉄道西鹿島に向かう。掛川からも二俣へは行けるようなのだが、本数が少ないらしい。西鹿島の駅前の喫茶店浜松市美術館館長の増田幸雄さんと待ち合わせ。「また誰かをしばいてましたか」という話で笑う。
 車で二俣を抜け、雄大天竜川を遡って行く。この「川を遡る」ということが、今回の標題「闇の奥の木羅」の、「闇の奥」に掛けられる。コンラッドの超絶傑作「闇の奥」、そしてそのヴァリエーションであるコッポラの「地獄の黙示録」で、アクションの主体は、「川を遡る」のだ。
 天竜川、といっても、天竜川は相当長いので、このあたりの天竜川は直線がとれることでボートのメッカとなっているらしい。たしかに翌朝、ボートが沢山出ていた。付近にある秋葉神社森の石松に縁あるところ、またなにかあれば訪れてみたい。
 山並みの光景が美しく、虫の音も、山の大気も心地いい。天竜川はむかしは「暴れ天竜」とも呼ばれた川だったが、いまはダムのおかげで、川の音はほとんど聞こえないほどゆったりとした流れである。そのせいか、車から見る光景がドナウ川とかなんとかアチラの光景に見えてきたりもし、ある突端部はクールベの「シヨン城」を思わせた。

 横山橋を渡ってすぐのところにある旧竜川中学校は、私などの世代にとってはモロ、ノスタルジアを刺激されるところだった。いわゆる「廃校」と聞けば、古い木造の校舎なのだが、こちらは鉄筋で、いわば「昭和後期」の校舎である。私の通った小佐世保小学校を振り返れば、「昭和前期」の木造校舎が図書館だったり幼稚園であったりし、そして「昭和後期」の鉄筋校舎との双方があった。ちょうどそういう移行期だったのだ。
 運動場に設営された舞台と客席がすばらしく、とくに杭とイントレと板でつくられた客席は初めて見るもので、左門君と二人で感激する。さらにその八割を増田さんひとりで設営と聞いて、さらに驚く、とともに深く感謝する。
 それから秋野不矩美術館館長の今村春幸さんが来、準備と下見。日が落ち闇が深まるにつれ、山の気が強まる。電灯に薮蚊や蛾が集まる。すごい量で、忍者の練習を始め、火鋏で捕まえようとするが、修行至らず無理、と思った瞬間、増田さんが殺虫剤をぶっ放す。とても絵になる光景だった。
 旅館に送ってもらい、風呂に入ってビール飲んで飯を食うと、もうこれでなにもかもが終わった気になって、明日はどこへ行こうかとかいう話しになる。しかしそんなのんびりした幸福に満ちた気持ちも、規則正しく三時間ほども続いた夜中のあの声で寝付けずで霧散。
 旅館の近くのシャッターに「某爆薬(株)」とあり、「〜爆薬(株)」ってすごいなーと思うと、ダム工事や山開きのための「爆薬」の会社だとのこと。
 天竜二俣はもとは林業の町だったが、輸入木材に押されてしまったという。植林というのも江戸期からあったとは知らんかった。それにしても、ここはデビッド・リンチの「ツイン・ピークス」のような、というと、あの映画の筋はやばいのでアレだが、リンチファンとしてはぐっとくる。
 翌朝は歩いて秋野不矩美術館に行く。藤森照信氏設計の美術館は傑作で、溝の蓋まで木製で、手が込んでいる。西洋の古城のようにも見え幻想的だ。あとでわかったが、秋野不矩さんの愛したインドの建築からインスパイアされたようだ。
 黄色などがとてもきれいな秋野不矩さんの絵の一枚に、館から海を覗いたものがあり、ああマルグリット・デュラスだと感じる。展示スペースの関係で枚数は少ないのだが、ここはわざわざ足を運ぶべき美術館である。
 今村さんと左門くんの車内での会話が、若い作家と館長とのいかにもの日曜美術館的会話でおかしかった。学校に着いたら増田さんはもちろん町内会の方々がすでに準備をされておられ、中学校の四階を作業室として提供される。隣は図書室で、私にとっての宝物である地名辞典が並んでいた。左門君の作業を手伝い、水彩絵の具を紙に塗る。歌舞伎座で働いていた時もそうだったのだが、こどものときは自分は将来画家になりたい、のではなく、画家になるもの、と思っていたほど、色フェチで、絵の具が好きだったのだが、なによりその独特の匂いによって、往年の感覚が掘り起こされる。しかも今回は、文字通り山間部の学校の教室で、まだ夏のような光の射すなかの作業で、しかも黒板には「SOS」とかマリオのキノコのような落書きが書いてある。たまらず落書きを始める。「御用の方はチンタオシャモンまで」。
 さて舞台の台座となっているビールケースを隠すための材を探しに村の方と河原に向かう。軽トラの後ろに乗るが、なにもつかまずに正座で乗ると、結構怖い。が、風が気持ちいい。左門くんはしっかり車の部位をつかんで、安全対策はばっちりのご様子。
 河原にススキが生えていたので、左門君は「ススキで!」と叫び、ススキ刈りを始める。トビとかいう種がびっしり服につく。トビは実にしっかりしたもので、三日たっても洗濯してもまだ靴下にくっついていたほどだった。トビのおかげでゾンビ化した。
 学校に戻り、作業をはじめる。たばこを買いにタバコ屋に行く。もちろん私はタスポを持っていないので、なかへ声をかけると、首に包帯を撒いたお婆さんがゆっくり出て来、「いままで自販機だったから、銘柄を覚えなくて、ウルトラとかスーパーとかよく分からんのよ」とかいう話しをする。タスポのおかげでこういう会話が出来る。つまりタスポ導入以前の自販機では、こういう触れ合いは消滅していたのが、こうして復活したのだ。そういえばこないだ「笑う犬2008秋」でホリケン演じる梅屋敷のトシが、「タスポっていう外人が煙草を買い占めてんだよ」といっていたが、それは関係ない。
 続々ひとが集まり増えて行き、ばたばたと時が過ぎる。いつのまにかシンポジウムがはじまっている。手作りのカレーや豚汁が食堂としての図書室に現れる。そこでパーカションの方と話す。あとで準備していると、あちらの部屋では音楽の練習、こちらではダンス部&美術部みたいな感じとなって、なんとも懐かしい。

 四階と運動場、そして舞台として使用を考えるゲートボール場を往来すると、それだけで疲れてきた。ゲートボール場には道具小屋があるのだが、そこにはなぜか古い時計や鏡などが置かれていて、手作りの、自然発生的な「祠」となっている。たぶん、「物神」が関係しているだろう。つまり、日常使っている物は時を経るごとにカミが宿り、あるいはカミとなる。浅草の三囲神社にある包丁塚や、針塚などもおなじ「物神」の考えによる。今回は物部村からおりてきてもらうので、同じモノつながりで、この「祠」を使わざるを得ない。
 
 車は100台を超え、ひとも想像を絶するほど集まっている。これは一重に増田さんの活躍によるのだろう。

 さて左門くんのボディペイントがはじまる。派手に塗られたパンツだけだととてもはずかしいので「はやく塗って」と頼む。さてまあ、すでにフェスの公演ははじまり、時間が巻いているとも聞き、急いで塗り終わり、言語化不可能な、イイ感じの化粧となった。書いている本人が憑かれたように興奮している。
  
 今回の「闇の奥の木羅」は、コンラッドの「闇の奥」でイギリス「帝国」がアフリカで溶けていったのにあやかる。コッポラのヴァリエーションではアメリカ「帝国」がベトナムで崩壊し、今回の私のヴァリエーションでは、同じように日本の「帝国」、というか「日本」という名前が溶けて行った。この間続けた、<歴史>への沈潜によって、出自不明とされる「日本」が、それはたとえば藤原不比等による国家企画なのであり、うんぬんと。
 昨年末より始めた系譜論・起源論が、左門くんとの関心とも共鳴し、いい作業となった。アジアトライで体験したインドネシア・韓国・日本の三角関係から、モンゴル、それから百済新羅の話し、なにより百済のHyop(-Hyeop-Hyep)氏、それから葛城国家、吉野と修験道の起源、忍者、海人、山人、倭族とオーストロネシア、東北アジア、ユーラシアのトゥルク=ツングース、うんたらかんたら。そういえば今回は触れられなかった月信仰も重要である。(三浦茂久「古代日本の月信仰と再生思想」作品社)
 
 運動場の向こうで待機する。これ、あと一ヶ月後だったら、死んでたなーと思うが、この日は、ぎりぎり耐えられる気温だった。
 本番。まあ本番の心理や経験を書き出すときりないので省略。とはいえ、まだコンタクトレンズは装着を禁じられているので、片目で踊ったのだが、やはり暗いところではさすがにつらかった。ので、これからは気をつけよう。
 デジタルヴィデオカメラは、以前の浄智寺の時と同様、夜露で機能不全。重い三脚とともに、荷物の重量のほとんどを占めるというのに、そして翌々日までその荷物を持って浜松をぷらぷらするというのに、なんの意味もないし、そもそも、以前の自分の失敗を忘れていたことに腹が立つ。防水のカメラないし防露対策を考えないといけない。
 舞踊後、こてこての絵の具を落としに、町内会長さんの風呂を借りる。しかし、なかなかこすっても落ちない。ほんとに落ちなくて、それはそれはペンキのようでした。考えてみれば、舞踊中も、汗かいても、全く崩れなかったし、多くのひとがあれはペイントでなく、タイツか服かと思っておられたようだ。
 後片付けのために急いで戻ると、左門くんは舞台で使った楽曲を鼻歌で歌いながら、ゆっくりうっとりされている。一階でははやく家に戻って打ち上げをしたい町内会の方々がいまかまだかと待っている。あれやこれやと片付け、増田さんの車に乗り、飲みやに着く。そこで左門君、メインの荷物であるリュックを積みそこねたという。「もうあきらめたら?」とかいったりするものの、そんなわけにもいかず、急いで学校にまた戻ると、鍵が締まっていたという。翌日、結局、増田さんが取りにいって、それからまた浜北のホテルに持ってきてもらって、それから増田さんはまた天竜でのばらしに戻られた。いやはや、リュック事件はともかくとして、本当に増田さんの20人分の努力とオトコブリに感嘆しました。本当にありがとうございました。
 居酒屋の、たしか「すみよし」という名前の居酒屋でも、みなに慕われていたなんとかさんがなくなったといって偲ばれたり、「ニュートリノが〜」とおっしゃるなんとかさんは高校のとき誰も解けない問題を解いたりなど、なんか、本当に1970年代にトリップしたような感じで、とても楽しゅうございました。
 当日、お越し下さったみなさま、それからあまり挨拶もできないまま別れた方々、とにかく、こんなイベントが実現できるということ、そして偶々の縁で、自分も参加でき、新しい踊りの次元が感じられたということ、とにかく、翌日の浜松での思いでとともに、すばらしい体験となりました。勇気を与えてくださり、本当にありがとうございました。

 浜北のホテルは、時間の流れ方がラヴェンナやペザロのホテルに似ていた。トビでゾンビ化したズボンと絵の具に塗られた私を包むため持ってきてもらっていた毛布を左門くんが捨てる。一時して、「メモ帳がない!」と左門くんが騒ぎだす。「ズボンのポケットは?」と私がいい、「あ」とまた左門君、ズボンを取り戻してさぐると、ありました。

 翌日の浜松もまたなにやらとんでもないことになってしまって、ここでは書けない話ばかりなのだが、左門君の行きつけの古本屋「時代舎」のご主人がまた大変な方だった。品揃えが、これまた、私が小学校のとき、父に連れられ古本屋巡りをいつもしていたのだが、そのころの古本屋にとても棚が似ていて、これもまた衝撃だった。ポイントは、漫画コーナーで、つまり手塚治虫白土三平、それからメンコとかの棚があり、また文学、郷土史、歴史、思想の棚がなんとも豊かでたまげる。まあ、いまの自分の関心にヒットするものと偶々合ったということなのだろうが、二万円くらい買ってしまった。「時代舎」は、浜松城公園の、浜松市美術館の裏の通りの、松城町にある。
 それからご主人と左門君のお母さんのお友達らと飲みに行く。帰りがてら、「布橋」の話しを聞く。信長か誰かが、布の橋を渡し、追ってへの罠とした場所。
 翌日はへなへなになりながら、「あつみ」で鰻を食べる。あと、股引きとわらじとかもつい買ってしまう。店のオヤジに「よく二人で旅行するの?」と聞かれ、ああそうか、左門君とこうしていると、モロ東海道五十三次、膝栗毛なんだなと、自分たちの見え方が分かって、笑う。あと喫茶店「太陽」にも行った。名前がいい。メニューには「Cafe the Sun」。灰皿にも「SUN」。
 そういえば、三ヶ日にある摩訶耶寺も、勧められたので、いつか行こうと思う。
 最後、新幹線の改札に入ったとき、「あれ、あの荷物は?」と身振りまじえて左門君をからかうと、青島左門、一瞬、固まるなり。
 
 「天竜と浜松はいいとこだ。」