5.配布資料(4/10)

昨日はご来場いただきまことにありがとうございました。

全部一気に終わらせる予定でしたが、1598年までが時間的限界でした。

次回講話は日程未定ですが、1599年以降を扱います。

以下、配布資料を記載します。
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<帝国>の起源                   脇川海里 2009,4,10.

「…それまでは防遏も受けず形も成していなかった住民を固定した型に嵌め込むという操作が、一つの暴力行為をもって始められ、また同じく全くの暴力行為をもってのみ終わったということ、-従って最古の“国家”は一つの恐るべき暴政として、一つの無情な碾臼として現れ、その碾臼が廻っているうちにやがてあの民衆や半動物という原料はついにすっかり軟らかく捏ね潰されてしまったばかりか、更に形をさえ与えられてしまった…国家は“契約”をもって始まるとなすあの妄想は片づけられてしまった…彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る…余りに突然で、余りに説得的で、余りに“異様”なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である…彼らの出現する所にはある新しいものが、生きた支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して“意味”を孕んでいないものには決して場所を与えられない…彼らのうちにはあの恐るべき芸術家的利己主義が勢いを張っていて、それが真鍮のように輝き、“作品”のうちで-母のその子のうちにおけるが如く-永久に正当づけられていることを知っている。」ニーチェ道徳の系譜(1887)』II-17(木場深定訳、岩波文庫

帝国主義とは、国家の際限なく拡張を強行しようとする無目的的な素質である」シュンペーター帝国主義と社会階級』(都留重人訳・岩波書店)p.30
「戦争機械…戦争の必要上つくられた機構が、いまやそれ自らの必要上戦争をつくるものとなったのである」同書pp.59-60.

「思考の内容があまりにも体制順応的として批判されることがあるが、問題はまず思考の形式そのものである。思考形式それ自体が国家装置から拝借してきたモデルにすでに順応している場合には、そのモデルは思考に目的・軌道・水路・運河・手段、つまり一大方法論organonを定めることになる。それゆえ思考全体を覆うような思考のひとつの像があることになり、それはいわば思考において展開された国家形式のようなものだ…国家形式は思考において展開されることによって、合意(consensus)を得ることができる…思考だけが権利上の普遍的国家という虚構を発明し、国家を権利上の普遍性へ高めることができるのだ」ドゥルーズガタリ千のプラトー』(田中敏彦共訳、河出書房新社,pp.430-431.)

「世界史は、もろもろの偶発的出来事の歴史であって、必然性の歴史ではない。切断と極限の歴史であって、連続性の歴史ではない」(後掲書、p.264)
「あらゆるものが父の名や母方の祖父の名の上に引き下ろされるのではなく、むしろその名は歴史上のあらゆる名前に開かれていた。あらゆるものが去勢というグロテスクな切断に投射されてしまうのではなく、あらゆるものは族長支配や家系や植民地化といった無数の流れ-切断のなかに分散していた…人種・氏族・縁組・出自のあらゆる働き、歴史的・集団的なあらゆる漂流。こうしたものは、まさしくオイディプス的分析の対極にある。オイディプス的分析は、錯乱の内容を執拗に粉砕し、これを全力で“父の象徴的空虚”のなかにつめこんでしまう」ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』(宇野邦一訳、河出文庫,上巻,pp.317-318)


ユダヤ民族:ディアスポラのなかで統一イスラエル=神権王国の再現を希望→メシアニズム。
ローマ帝国:ポプラレス(民衆派;マリウス)とオプティマテス(閥族派:スッラ)、ミトリダテス戦争(BC88-BC63)にてポントス王国討伐権を巡り対立、ローマ内戦に。スッラ終身独裁官(Dictator perpetuo)。民衆派カエサルものち終身独裁官となり、共和制を破壊。BC27オクタウィアヌスアウグストゥス)終身独裁官を廃止し、初代皇帝へ[ローマ帝政]。
284 ディオクレティアヌス専制君主(ドミナートゥス)制開始:範はサーサーン朝(226-651)のシャー:権力集中、軍事力独占、官僚制整備、属州総督の権限縮小。286 マクシミアヌスと共同皇帝→東方皇帝と西方皇帝:東西分割 293テトラルキア:四分割統治(正帝副帝×2)302 マニ教、基督教弾圧。
313 コンスタンティヌス一世、基督教国教化、専制君主制強化:東方的君主制と神の代理人としての皇帝が全世界の主として統治[政教一致]。
375 匈奴フン族東ゴート族征服→ゲルマン南下。
395 ローマ帝国分裂:東ローマ帝国ギリシア系)と西ローマ帝国(ラテン系)
476  ゲルマンのオドアケルによって西ローマ幼帝退位、ラヴェンナでイタリア統治[西ローマ帝国滅亡]。
488 東ローマのゼノン皇帝に任命された東ゴートのテオドリック、イタリア征伐。オドアケル降伏。テオドリック、イタリア王に。のち東ゴート王国
553 東ローマ帝国東ゴート王国を滅ぼす。以降、東ローマ帝国はサーサーン朝、イスラム帝国スラヴ人の侵攻により衰亡。
726  東ローマ帝国(イサウリア王朝)のレオーン三世、イコノクラスム(偶像破壊)→教皇と対立
787  フィリオクェ問題で東西教会決裂:西教会「聖霊は父なる神より発する」に「子からも」とラテン語訳に付加→1054 教会大分裂

■ヨーロッパの起源:800 教皇、フランク王カール一世に帝冠[ローマ皇帝]:地中海世界は西欧・東ローマ・イスラムに三分。
843 フランク王国三分割(西フランク→仏、東フランク→神聖ローマ帝国[962-1806]・独、中フランク→伊)

■1016デンマークヴァイキング・デーン人)のクヌート、イングランド征服:デーン王朝(北海帝国)。1043エドワード懺悔王戴冠でアングロサクソン王朝復活するも、その義弟ハロルドに対し1066ノルマンディー公ギョームとノルウェーが侵攻:ギョーム英王=ノルマン朝:ギョームは英王だが仏では臣下→百年戦争の遠因。征服王朝であるため王の権限が強い→英国絶対王政。1154仏からヘンリー二世:プランタジネット朝→仏王とまたも関係悪化。プラ朝3代王ジョン、仏フィリップ二世と抗争、大陸領土喪失→無能な王の強権を制限する動き→1215マグナ・カルタ

イスラム帝国:632 ムハンマド没→正統カリフ国家→ウマイヤ帝国:アラブ系:イベリアまで進出(西ゴート王国征服)→750革命によりアッバース帝国(ペルシア系。当時バグダードは世界最大の都市)→1258モンゴルに滅ぼされる。

◆十字軍(1095〜1244):セルジューク帝国(トルコ系。1038-1308)によるエルサレム占領に際し、ビザンツローマ帝国連合軍(十字軍)がパレスチナ侵攻(1096)、十字軍国家を建設。以後、二世紀続くが、ペストの流行などによって西欧勢力は撤退。1244イスラムエルサレム奪回。1248ルイ9世、サラディン二世(アイユーブ朝)に敗北。→欧州側がエルサレムを確保した期間は1099-1187,1229-1244。以後20世紀までイスラム支配下。しかし戦争によって西欧商人とイスラム商人との交易が展開し、ビザンツ、イタリア諸都市国家は発展。<十字軍→ルネサンス

モンゴル帝国(1206−1634):1220 チンギス、ソグディアナ再建のため行政機構整備  1225オゴディ「帝国の征服は馬上でできた。だが馬上では統治できない」→行政機構整備・外国人官僚の登用
1235 オゴディ=ハン、南宋とキプチャク草原・欧州方面への二大遠征を決定。交通環境整備→商業・金融の発展:パクス・モンゴリカ:相対的に平和と安定。:法制度整備・信教の自由→1260 カトリック活動開始。1281フランシスコ会中国で布教。元は厚遇するが、ネストリウス派と衝突。
1271 クビライ、大元ウルス建国。救貧政策。   1274/81 日本侵攻
1301 大元ウルス、チャガタイ・ハン国キプチャク・ハン国、イル・ハン朝の連合王国体制へ(モンゴルは同化政策をとらず、言語を属国に強要せず)
1351 紅巾の乱:白蓮教→1368朱元璋、明建国。大元ウルスは北走(以後、北元)→モンゴル帝国の終わりでなく、イラクのジャライル朝や、1370に建国されたティムール朝(後身ムガル帝国1526-1858)など、様々な継承帝国が続く。なおチンギス統原理(Chingisid Principle)という王権の正当性に関する血統原理思想は、黒海クリミア半島では1783まで、ホラズムでは1804まで、インドでは1857まで機能。

オスマン帝国(1299‐1923):15世紀,モンゴル帝国衰退し、オスマン台頭。1453 コンスタンティノープル占領、東ローマ帝国を滅ぼす→キリスト教徒は迂回し、東方にキリスト教の同盟者を求める(ベイリp21)
1512セリム一世、エジプトのマムルーク朝併合。メッカとメディナの保護権を掌握。
1522 スレイマン一世、海賊だった聖ヨハネ騎士団ロードス島から駆逐、東地中海の制海権を掌握。
1526 モハーチの戦いでハンガリーを併合。1529ウィーン包囲。1538プレヴェザの海戦で地中海全域掌握。またアチェ王国の要請でオスマン艦隊はマラッカ海峡まで行く。1571レパントの海戦でスペインに敗北。しかし戦後も依然として強勢であり、キプロスチュニスを獲得していく。1645ヴェネチアと戦争。1683第二次ウィ−ン包囲でヤン三世らの同盟軍に破れ、16年間の戦争へ。1699カルロヴィッツ条約で東欧の覇権をオーストリアに奪われる。大北方戦争(1700-21)でスウェーデンのカール12世側につくが、苦戦。1774ロシア南下により、1792クリミア半島はロシアへ。

■イベリア両帝国:ウマイヤ朝のイベリア進出→718-1492 レコンキスタ(再征服)   ポルトガル王国(1139-1910):反イスラム民族主義が高揚、中央集権制度が確立。再征服の延長として海外版図拡張政策:ジョアン1世のアヴィシュ朝。新航路の開拓のたびごとに莫大な貿易の利益。スペインと領有権を巡り折衝、デマルカシオン=異教世界の二分割、貿易権、原住民奴隷化権、布教独占権をポルトガル教皇勅書で承認される。葡萄牙イエズス会、西とフランシスコ会が結託。ポルトガル、ディウの海戦でインド洋制覇、インド、マラッカ占領。東アジアにも進出。1580西、葡萄牙併合。
 
宗教改革=内戦。旧教に追われた新教徒が海外進出。他方、ローマ教皇プロテスタント対抗として信者獲得のため宣教師を船に同伴させる→オスマンと新教への脅威、そして新しい富の獲得が東進の動機。「霊魂と胡椒を求めて」
※インド・中国・日本はカトリックにとって憧憬の土地=東方主義:
1)創世記の「東方のエデンの園」伝説    2)聖トマスのインド布教伝説:ネストリウス派
3)プレステ・ジョアン(プレスビュテル・ヨハネス)伝説:東方三博士のひとりないし子孫:オットー・フライジング年代記』(1145)
※ヴァリニャーノ『東インド巡察記』§2:インド人はみじめで卑劣で黒人種、無知邪悪、アリストテレスのいうように(『政治学』の先天的奴隷)他人に奉仕するために生まれてきた/日本人は白人種。洗練され礼儀正しい(すでに白人人種主義が台頭)→インドや中国での布教の困難にくらべ、日本は布教がよく展開。のちキリシタン弾圧により、日本人は残忍という言説が流布。またイベリア商人・宣教師、日本人を東南アジアに売却。

イングランドブリテン帝国
1215 マグナ・カルタ:ジョン王が仏に敗戦&増税→貴族激怒→減税など王の権利を制限。
1277〜エドワード一世、ウエールズ征服(1282)、スコットランド侵攻(1292) → 1296イングランドスコットランドを併合→1306 独立回復。
◎1337百年戦争(〜1453):仏カペー朝断絶で、エドワード三世仏王位継承を主張、仏へ侵攻。当初はエドワード黒太子活躍で仏の半分を占領。のちシャルル七世とジャンヌ・ダルクによってイングランド撤退→薔薇戦争(内戦)→諸侯疲弊・王権強化→絶対君主:テューダー朝(1485-1603)/フランスでは宗教戦争→統合後、絶対君主(ブルボン朝1589-1792)
ブリテン帝国のプログラム:プロテスタント的で商業的で海事的で自由な帝国
・1540年代の「ブリテン問題」→イングランドスコットランドの論争
-イングランド側の根拠:ジェフリ・オブ・モンマス「ブリタニア列王史」(1136)イングランドの優位
-スコットランド側の根拠:ポリドール・ヴァージル「イングランド史」(1534):ブルータスの実在への疑義。
-ブリテン帝国のローマ的起源:ブルータス神話(帝国の神話):トロイア戦争の亡命者ブルータスによる創建、ブルータスの三人の息子の時代に複合君主国となったから帝国である。
ローマ帝国におけるimperiumインペリウム概念の変遷
1:公職者の権威(内部の支配権imperium domiと征服地への支配権imperium militaeという区分)に限定→ローマの成長とともに外へ膨張→ 限定や「内部の支配権/征服地への支配権」や市内/外の区分を失う。
 2.無制限の権威→ローマ市とその植民地・属州が単一の領土的統一体となる。
 3.公式の領土への完全不可分の権威→中世のimperium:完全独立の権威、領土の統一体、支配の根拠を意味→のちの政体の先例となる。
教皇制は領域性にしばられないためより普遍的。諸君主国家が個別にimperiumを求める→国外の普遍的勢力つまり他の国家と教皇制に敵対
※近世において国家形成と帝国建設とは明確に区別できない。近世国家はのちに帝国を構築するのと同じ方法(征服、植民、同化)で建設された。
※やがてブリテン帝国は分裂し、統合的な複合君主国という連邦的で多元的な王国に。この連邦的・分裂的特質はアメリカにも継承される。
◎帝国的健忘症:歴史家シーリー1881「われわれはあたかも無意識状態で世界の半分を征服し植民してきた」

■オランダは重税への反発と(利潤追求を求める)カルヴァン派により1568オランダ独立戦争(八十年戦争→1648独立承認)。ネーデルラント連邦共和国(1581−1795)は17世紀より東インドに進出し、ポルトガルから貿易ヘゲモニーを奪い、オランダ海上帝国を築く。

■日本 :2世紀倭国大乱 3世紀ヤマタイヤマト王権 4世紀 倭国は半島より鉄輸入 
5世紀 経済発展を遂げた倭国、鉄資源を求めて半島進出:391倭軍、百済新羅を破り、397百済と結ぶ。399倭、新羅侵攻。翌年金城占領。高句麗新羅を支援し南下、倭軍は任那加羅に退く。402 新羅、倭と結ぶ。404 倭、帯方界まで侵攻。腆支王、倭により百済王として即位。/倭の五王、中国に朝貢→渡来人増加。部民(べみん)制・氏姓(うじかばね)制度=ウジ組織。雄略天皇VS諸王/五世紀中葉、国内で「治天下大王」と呼称→中国王朝と異なる別の天下
475 高句麗南下、百済陥落→鉄輸入減少。ヤマト王権混乱。
6世紀 継体天皇により統一、磐井の乱新羅軍との連合軍)。以降、対外志向弱まり、内向化・内政強化.
589 隋、統一(270年来),律令制:王土王民思想:均田制(百姓に土地配給)・律令格式に基づく官僚機構。律令制は日本、新羅渤海吐蕃も導入。
607 倭国「日出處天子」と称し、後再び倭を称す。煬帝怒るが高句麗遠征のため諌めるにとどめる。 630 唐、突厥を破る
658  阿倍比羅夫蝦夷征伐。  
660 新羅百済を滅ぼす  ◆663  白村江の戦い:倭百済軍、唐新羅軍に敗北、国政整備がすすむ→律令制導入
668  新羅高句麗を滅ぼす:この間の戦力を支えたのは伽耶の鉄
670  国号を日本に更む(三国史録) 672壬申の乱 681 天武、律令編纂開始
701大宝律令完成。国号を正式に「日本」とし(『旧・新唐書』には「日本が倭国を併合」)また天皇(てんわう:明治に-のう)と称す:唐の高宗(在位649-683)が道教由来の天皇(神格化された天の北極=宇宙の中心)を称し、死後は天皇大帝の諡(おくりな)を付与。 720『日本書紀
◆未来記=予言書:「野馬台詩」→平安後期に百王思想:天皇は百代で終わる:百王の流れ畢ごとく竭き、猿犬英雄を称す:南北朝時代には百代に達す。慈円や義満も参照。
武家天皇院政:執政王として君臨した天皇は天武・持統・後醍醐の三天皇という説もある。平安中期までは名目上の主権者は天皇。1086白河上皇による院政開始により、王権の所在が複雑化:上皇(本院)の出す院宣(いんぜん)が、天皇の出す綸旨(りんじ)よりも最上の文書となり、白河をつぐ鳥羽上皇は名実ともに専制君主となる。
1221 承久の乱後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して挙兵。上皇は配流、後鳥羽の兄・守貞親王を新天皇とする(武家による天皇廃位)。以降、幕府に無断で行われる皇位継承は無効とされる→1629
1246  天皇家皇位継承を巡り、大覚寺統持明院統に分裂(→幕府仲介で交互即位へ)
1274/81 元寇太宰府からの蒙古牒状を朝廷の院権力は幕府に委ねる:天皇による外交権の自発的な放棄。
1321  ◆大覚寺統後醍醐天皇、親政開始→1331 後醍醐挙兵。幕府、後醍醐を廃位し、隠岐に流す。
1333 名和一族によって島より脱出、伯耆船上山(鳥取)で倒幕の綸旨発布=挙兵。幕府から派遣された尊氏、後醍醐側に寝返り、鎌倉幕府滅亡。建武の親政:中国的な天皇専制を目指す。
1335  尊氏、恩賞を巡り離反、持明院統光厳上皇を擁立[北朝]、後醍醐、吉野へ→南北朝動乱は王権の形態(親政か院政か)を巡る争いでもあった。
1351  紅巾の乱(白蓮教;弥勒下生:終末論・メシアニズム的・ミトラス教系・革命思想)
1352  南朝軍、光厳上皇を拉致。幕府、受禅儀式を行うために弥仁の祖母を「治天の君」と見たてる→天皇を欠いたままでは、権力の正統性立たず。
1368  ◆朱元璋、大明を興す。文字の獄:光・禿・僧などの文字を使うとあてこすりとして処刑。以降、空印事件、郭桓事件などで文人粛清。しかし科挙試験の難易度は下がり、定型文を暗記するだけでよくなり、官吏は職業意識低下、事なかれ主義に走る。文人・功臣粛清は朱の死まで続いた(〜1398)。
1380 クリコーヴォの戦い:キプチャク=ハン帝国からのロシア独立運動開始  1385 ポルトガル王国カスティーリャ(スペイン)から独立
1388  高麗の武将李成桂クーデター。 1387  朱元璋、北元をほぼ壊滅する。  1393  高麗、朝鮮国号にする[李氏朝鮮]。
1395  ◆足利義満、出家し、法皇に擬し、綸旨を上回る御教書(みきょうじょ)を発給:武家による皇位の簒奪。義満は百王思想を意識、また朱元璋を憧憬していた。皇位簒奪は死によって挫折(暗殺か)
1415  ポ、モロッコのセウタ攻略。エンリケ航海王子
1419 応永の外寇李氏朝鮮対馬侵攻。
1428 1月籤で義教将軍跡目。9月正長の土一揆(日本開闢以来とされる)
1438  後南朝・大和土豪関東公方ら連合し、永享の乱:義教、朝敵征伐の「治罰」の綸旨を得る:天皇権威の復活。治罰綸旨の復活は極秘にされたが(幕府の権威にとっては問題)、義教が赤松満祐に暗殺され(1441)、赤松討伐に治罰綸旨が適用。以後、天皇の名による平定戦争(秩序回復)が定着。
1453  ◆オスマン東ローマ帝国を滅ぼす。
1455・56 教皇大勅書でポルトガル、アフリカからインドに至る地域の国王領有と貿易独占が承認。
1457  コシャマインの戦い。和人館陥落、蠣崎氏のみ残る。百年後、アイヌと協定。 
1465 明、白蓮教の乱/1467 日本、応仁文明の乱。
1472  ビザンツ最後の皇帝の姪ソフィア、教皇の仲介で露イワン三世と結婚。以後、ロシアは東方正教の拠点。
1479 スペイン王国イスパニア)成立。アルカソヴァス条約でカナリア諸島領有。航行権も獲得。 1481 大勅書でポルトガルの独占を再確認。
1480 ◆露、大ハーンへの年貢を停止、モンゴル軍攻めるが、ウグラ川で食料と寒さにより退陣。ルーシ、二百年のモンゴル支配(タタールのくびき1237〜)より解放、イヴァン3世、ツァーリを称す[東方帝国の転移:東方起源]。モスクワ=第三ローマ(第二ローマ=コンスタンティノープル)
1488  喜望峰/1490 ポ、アンゴラ植民地化
1492, ◆1月グラナダ陥落によりレコンキスタ(718〜)完成。8月コロンブス航海。
1493 ◆教皇アレクサンデル6世大勅書で教皇子午線を設定:西大西洋はスペイン、東大西洋とインド洋はポルトガル
1494   トルデシリャス条約:スペイン・ポルトガル間で子午線を境に西欧以外の世界を二分割し領土化。未発見地も「将来の領土」として領有の対象。
1497  ヴァスコ=ダ=ガマ、インドとの直接交易を目指す。カリカットに翌年到りインド航路構築。コヴィリャンら修道士二名。「霊魂と胡椒を求めて」
1500 ポ、ブラジル植民地化(‐1822)。フランシスコ会8名カリカットに。  
1502 ポルトガル、カルタス(通行証)制度の導入。
1503 ドミニコ会もインド布教開始。 1504 エラスムスキリスト教兵士提要』:信徒とは基督教の兵士、武器は祈りと聖書。ローマ教会批判
1508  カンブレー同盟戦争:ヴェネツィア、アグナデロの戦い(対仏/西/神聖ローマ帝国教皇連合軍)で全領土と自由を喪失(マキャベッリ)。
1509 ◆ポルトガル、ディウの海戦でインド洋制覇(対グジャラート・エジプト・カリカット連合艦隊)。
1510 アフォンソ・デ・アルブケルケ、ゴア占領。カトリック布教国策化の端緒。    
1511 ポルトガル、マラッカ占領。倭寇
1516 トマス・モア「ユートピア」:ユートピア住人は人口過剰になると植民を推進。空き地を生産的に活用するという名目で植民地化を正当化。
1517 ルター提題。ポルトガル、明入国。    1518 フランシスコ会、ゴア、コチンに修道院建設。
1519 スペイン、メキシコ征服。◆カール五世=カルロス一世、神聖ローマ皇帝に。
1520 ルター『ローマ教皇論』:真の教会とは内面的な不可視のもの→万人司祭説。カール五世はルターらプロテスタント運動対策を講じるが、挫折。
1521 スペインのコルテス、アステカ王国征服。スペインでコムネロスの反乱(カール五世の絶対王政への抵抗)
1522 フッテン蜂起  1523 スイスのチューリヒ、ローマ教会と決別(ツヴィングリが指導)/『応仁記』:山名宗全細川勝元を猿犬(百王思想)
1524 エラスムス『自由意志論』。ミュンツァー農民戦争:翌年鎮圧
1525 ルター『奴隷意志論』:自由意志によって人は罪を犯すだけ、神が全てで人は無、恩恵と自由意志は矛盾する。ルター、農民戦争の暴徒化に関して、民衆の自発性に絶望し、「内面の教会」より制度的教会の優位を認める。◆また国家を神の作品とし、君主を神の代理人とし、その絶対的権力を正当化(絶対主義の理論的基礎?)/スイスで再洗礼派結成、ツヴィングリより敵視、カトリックと改革派の両方より弾圧。
1529 オスマン帝国、仏フランソワ一世と同盟し、ウィーン包囲。
1530 ◆ポルトガル、ディウ港占領、関税徴収(それまでインド洋は公海。グジャラート商人の自治グジャラート王国は不介入。ピアソン)
1533 西、インカを征服。マゼラン、モルッカ諸島航路探検、フィリピンで殺害される。教皇、ヘンリ8世を破門→議会、国王を国教会の首長に。
1534 英宗教改革。ヘンリー八世国王至上法(Act of Supremacy)→教会の土地財産没収→財源を潤し王権強化・都市開発の契機。旧教徒トマス・モア反対→処刑/カルヴァンバーゼルに亡命/◆元騎士のロヨラ、ザビエルら7名でイエズス会創設:「教皇の望むところへどこでもゆく」「私の意図は異教の地をことごとく征服すること」、軍隊的性格を持っていた(イエス軍):世界布教の根拠はマルコ16-15「汝ら全世界を巡り全被造物に福音を伝えよ」。終末論思想=世界は悪魔だらけで人類を神の民へと。教化思想(教育)、科学的知識の活用。厳格な組織◆ポルトガル王を布教保護者としてゴア司教区が設置。カトリック布教の国策化→「神の国建設」「霊魂救済」の名目で武力侵攻を正当化。
1536 ウェールズ合同法でウエールズ併合/◆カルヴァンキリスト教綱要』:神の絶対的選択(予定説)。為政者は神の代理人。人民は絶対服従の義務を負う。神政政治
1538 カール五世、プレヴェザの海戦でオスマンに敗退、地中海の制海権を喪失。
1540 イングランドスコットランド王朝合同。「Empire of Great Britain」概念の誕生。1540年代の「ブリテン問題」→イングランド、スコトッランド、ウエールズアイルランドをいかに統合するか→イングランドスコットランド戦争と平行して論争:帝国の正統性を巡って古典引用と修辞法の争い。人文主義者や詩人が行為主/新興修道会のイエズス会公認(910クリュニー会,1209フランシスコ会,1216ドミニコ会)のち1580年には会員5000人→インド布教の「停滞」(ヒンドゥ、イスラムの抵抗)打破のための新戦力として。
1541 ザビエル、インドのゴアへ。ヘンリー八世、アイルランド王を自称。
1542 ヘンリ八世「スコットランド人との争いについての布告」:ブルータス来島以降、野蛮人(巨人族)に秩序と文明をもたらした。イングランドは封建秩序を古来より途絶えることなく続いてきた。三王国は唯一の優越者に従うべき。スコットランドイングランド帝国の一部である。
1543 種子島ポルトガル人が鉄砲を伝える。
1545 カール五世らトリエント公会議カトリックの対抗改革の頂点)◆ポトシ銀山開発開始:1660迄に金200t、銀2万tが欧州に流入→貨幣鋳造→貨幣価値3/1に=インフレーション      
1546 ドイツでシュマルカルデン宗教戦争(〜55)
1547  エドワード政権でプロテスタント的で商業的で海事的で自由で独立的なブリテン帝国が構想される。「ただひとつの君主国がBritaynと呼ばれる」。ブリテン人皇帝コンスタンティヌス赤十字の象徴へ
1548 ゴアのランチロット、薩摩のアンジロウからの伝聞で、天皇=Vo(王ワゥ)、papaのようなもの、将軍はGoxo(御所)=emperador(皇帝)、Goxoは支配権を持っているがVoに服属と書く(天皇と将軍の関係を教皇と皇帝の関係に類比)
1548 カール五世、内戦の停止と対オスマンのためプロテスタントとの共存を提案(→1555 アウグスブルクの和議)
1549  ザビエル来日、11/5マカオ総督宛書簡「私を商務代理として信頼してほしい。利益は保証する」/T・スミス「このイングランド王国に関する国家論」:世界のあらゆる国民のうち政治的で文明的な国民こそが残りの国民を支配する/W・ラム「スコットランド商人とイングランド商人の訴え」でヘンリ八世の布告をスコットランド側から批判。ポリドールやヴェリギルウスを引用し、ブルータスの実在を批判。スコットランドの批判的人文主義
1550 ラス・カサスの訴えでカール五世、米先住民への不当行為の撤廃へ/ウェッダバーン「スコットランドの苦情」帝国批判:羅語colonia英語で初使用。
1551 日明貿易を独占していた大内氏が下克上により滅亡、倭寇もあり日明貿易中断。  
1552 イングランドカルヴァン主義波及。
1554 ロヨライエズス会憲改定:教皇と会長への「死人のごとき従順」/大友宗麟、布教許可:領国の富国強兵化(武器貿易利権)豊後信者1万
1555 ◆アウグスブルクの和議:ルター派容認決議(カルヴァン派は容認されず→三十年戦争の一因):領土の属する者に宗教も属するcuius regio,eius religio→領邦君主、カトリックから自立[領邦教会制]
1556 フェリペ二世即位(スペイン帝国)、ネーデルラントに重税、カルヴァン派弾圧。
1558 エリザベス一世即位(-1603)。父を踏襲し国王至上法再発令。旧教勢力の暗殺計画に幾度も晒される。「私は国民と結婚した」処女王。中道路線→ブラウンら会衆派は教会の国家からの自立、自給自足を訴え、弾圧→蘭・米へ避難。◆当代の法律家「王は自らの内に自然的身体と政治的身体を持つ。自然的身体は可死的で老いに晒されている。しかし政治的身体は目で見たり、手で触れることができず、自然的身体の持つ脆弱さ・欠陥を持たない」→カントロヴィチ「王の二つの身体」という虚構が近代民主制を準備:王の自然的身体に重ね合わされた政治的身体が「議会」へと読替えられ、後者を根拠とした前者の抹消が可能になった。清教徒「Kingを擁護するためにkingと戦う」→大文字時のKingが議会。
1559  ポルトガルイエズス会、エヴォラ大学創設(対抗改革の拠点)。5月スコットランドジョン・ノックスが偶像破壊運動。
1560 スコットランド議会はカルヴァン主義「スコットランド信仰告白」公式に採択(スコットランド宗教改革
1561  平戸で葡萄牙人殺傷事件。  1562 ユグノー戦争=フランス宗教戦争(〜1598):宗教戦の名目での内戦/大村純忠横瀬イエズス会に提供。
1563  大村純忠、洗礼。寺社を破壊し、領民に信仰を強制。
1565 西、フィリピン征服/T・スミス「英国人の国家」:英に必要なのは植民地。言語・法・宗教が国家の真の紐帯、これでローマ人は世界を征服した。
1567 ポルトガル、長崎に来航
1568 ◆オランダ独立戦争(八十年戦争→1648独立承認);スペインの異端弾圧と重税への反発と、利潤追求を求めるカルヴァン派/信長、正親町天皇の保護を大義名分に京都を制圧。信長は伴天連綸旨を平然とくつがえすなど天皇に敬意を払わないが、戦局のたびに天皇をかつぐ。
1569  トマス・ディグス、漂流物は臣民の財産にはなりえないゆえ、渚は国王の領有権下にある。
1570  大村純忠イエズス会に寒村だった長崎を提供。日本で信者3万。   
1571 レパントの海戦でスペイン、オスマンを破る。
1572 聖バルテルミーの虐殺/勅書でポルトガル領の教会収入三分のニをポルトガルの征服地と日本・ブラジルの布教活動への充当を承認。
1573 イエズス会ヴァリニャーノ、東インド管区巡察師に。翌年3月リスボン出帆9月ゴア到着。
1575 勅書でマカオ司教区創設/紋船一件:琉球船に対して旧例違反として渡航停止の制裁、屈服を待つ→琉球征服の端緒。
1577 ジョン・ディー『完全な航海術に含まれる一般的で貴重な記憶』布告を根拠に:この並ぶものなきブリテン帝国。ブリテンの真の生まれながらの臣民たち:北欧、北海全域を領土に。海上主権論/ヴァリニャーノ9/16書簡:サルセットでイスラムから攻撃、200名の兵士で守る。10月マラッカに。
1578  ヴァリニャーノ9月マカオ到着。同地イエズス会員が中国定住を果たせなかったことを知り、中国語習得の必要を思う/島津軍との戦争中に大友宗麟、洗礼。長崎を龍造寺隆信軍が襲撃、純忠はポルトガル支援によって撃退。
1579  ヴァリニャーノ7月日本へ向けて出帆。マカオ後任ルッジェーリ中国語学習。日本信者10万。10月ロペス書簡:「全パードレは王立要塞を日本に設置し、征服以外に道はないとした」
1580 西のフェリペ二世、ポルトガル併合(〜1640)/大村純忠、長崎統治権イエズス会に委託。ヴァリニャーノ『東インド巡察記』長崎で執筆:日本人は東洋において最良のキリシタンとしては最適。◆また『日本布教長のための規則』で大砲・武器・弾薬の配置、城壁内でポルトガル人を囲い入れ、長崎人兵士に武器供与を支持→マニラに武器調達・日本派船を要請。長崎の軍事要塞化(自衛/スコラ戦争理論)。大村領内キリシタンは一時6万。
1581 ヴァリニャーノ、イエズス会員のための方針書『日本の風習と流儀に関する注意と助言』:日本文化に自分たちを適応させるという異例の「適応主義政策」を採用。日本の僧の風習を模倣、従者を連れる。内一人が後の信長家臣のアフリカ人ヤスケ。在日ポルトガル準管区長カブラルのアジア蔑視と対立、翌年カブラルを退去/ネーデルラント連邦共和国(−1795)/2月正親町天皇と不和にあった信長は譲位を促すため内裏前で御馬揃(観兵式)を挙行し圧力を加えるが、天皇屈さず:承久以来喪失してきた天皇の権威が再獲得された。
1582 ヴァリニャーノフィリピン総督宛書簡で「征服事業は霊的な面だけでなく陛下の王国の発展にも寄与する。最大の征服事業は支那の征服である」、また天正遣欧少年使節を提案、実現、ゴアへ。ルッジェーリとマテオ・リッチ中国で宣教事業。太閤検地
1580年代、ロシア、シベリア進出、トポリスクに要塞。    
1583 ヌルハチ挙兵:女真統一戦争。
1585 秀吉イエズス会以外の日本布教は破門罪と勅書。翌年、フランシスコ会の布教権を承認。7月関白就任(藤原氏以外が関白になるのは未曾有)→武家関白制:武家を公家的秩序で統治しようと計画。秀吉による王政復古。◆9/3「唐国迄」と大陸侵攻に言及。
1586,3月 宣教師らに支那朝鮮征服計画を伝え、帆船調達を依頼。4月九州経略と大陸侵攻は連続。
1587 秀吉九州征伐(途次ポルトガル船の堺来航とインド副王来訪を要請)7/24博多でコエリョらにバテレン追放令通達:日本を神国と規定。長崎を直轄領に(しかし貿易利権のため活動を黙認)。しかし信仰を禁止しているわけではない→コエリョら有馬の高来で協議、フィリピンにスペイン兵派遣要請:10月生月のラモン書簡でポルトガル国王による要塞獲得を要請。/ヴァリニャーノ『日本巡察記』:天皇日本国王、秀吉をSenor de la Tenca(天下様)。フロイス天皇は最高統治者で将軍は副王。
1588 ◆英、西艦隊を破る→英台頭。教皇子午線から海洋自由の原則へ/秀吉、海賊禁止令:布教と貿易の分離 7月刀狩り:兵農分離琉球へ服属要求。
1589  フロイス、要塞建設と300名のイベリア兵を要請→追放令以前では九州局地的だったが、以後は日本国家との対決を想定。ヌルハチ女真5部統一。
1590  秀吉、日本統一/蠣崎(のち松前)慶広、上洛/2月琉球へ朝鮮・唐・南蛮も服属予定と告ぐ/8月ポ加津佐協議で戦争介入を禁止。ヴァリニャーノ、再来日/11月朝鮮へ「日輪の子」:吾朝之風俗を四百余州に及ぼし、朝鮮は入朝したので憂う事なく、征明協力すれば隣盟固まる。願いは佳名を三国に顕す事。
1591 7月インド(=ゴア=ポルトガル)と9月ルソン(=マニラ=スペイン)に入貢要求:来春の対明戦争の陣営に遅参すればルソンに出兵し制裁すると通告。身分統制令:大陸侵攻のため:外的拡張と内的統御との平行関係は、<帝国>に普遍的にみいだされる。
1592,1 月 大陸侵攻の軍紀:狼藉等戒める。4/12釜山侵攻。5/18唐入り:明服属後天皇を北京に置きインド征伐構想を示す。6/3天竺南蛮まで。6月平壌攻略・明援軍。7月李舜臣、日本水軍撃破 8月オランカイ(韃靼)侵入、女真族と戦闘:朝鮮は女真を恐れている、女真はまだ不統一などの情報→韃靼への通路としての蝦夷対策へ/人掃令:戸籍調査/英、対圃アゾレス沖海戦で極東貿易について知る。
1593 ,3月交渉。 6月明へ:海賊停止令に謝意をしめさないため征明、朝鮮は約を違えたため誅罰。9月明と交渉決裂。11月ルソン、台湾(高山国)に服属要求/松前氏に「国政ノ朱印」→蝦夷支配権の認可、夷人への非法行為禁止/フランシスコ会が正式に来日/ヌルハチ、海西女真連合軍に完勝。
1594 リチャード・ビーコン「ソロンの愚行」:マキャヴェリアイルランド版:平和で永続的な(安定的)国家は外国人の権利を認めず(スパルタ的)自然を要塞とする(ヴェネツィア)。名誉と栄光を目指す(膨張的)国家は外人を同化し、民衆を武装させ、同盟関係を築くべき(ローマ的)。
1596   英ウッドら中国に向けて出航するも、難破/蘭艦隊ジャワに到着、イスラム勢力のポルトガルへの反感を利用し、バンタン・アチェ王国と結ぶ/スペンサー未完詩編「妖精の女王」で征服をはじめて民族学的に正当化。ブリテンが国家の最高状態であることを人文学的に証明。「ブリテン人が所有し強大な国を築いたこの土地は/古代には未開の荒野/住人なく耕されず何も企てられず評判にもならず」(2巻10-5)、王の純血はアーサー帝国を復活させ、永遠の統一へ(3-3-49)また同「アイルランドの現状に関する見解」でアイリッシュスコティッシュの祖先はスキタイ/サン・フェリペ号事件
1597 朝鮮出兵。ルソンに朱印船制度の承認を要求「日本は神国」、入貢要求は消える/ジョン・ディー『ブリタニカの海上覇権』/秀吉による迫害を受けてイエズス会本部、軍事介入を禁止。五人組十人組:相互監視体制。
1598,8月 秀吉没。◆ヌルハチ、明の対日戦の隙をつき、翌年ハダ部を滅ぼす/ 家康、宣教師ヘスースと引見、フィリピン総督との取次を依頼。蝦夷領主松前に「北高麗の様体」について語る(韃靼=女真)。
1599 イングランドアイルランド侵攻。スコットランドのジェイムズ六世「奥地の役立つ臣民を短期間で改革できる植民地を建設し、野蛮人を殲滅するか移住させ、文明を移植する」
1600  ロンドン東インド会社設立(蘭仏、続く)/仏、カナダ植民/ハクルート「主要な航海」/クレメンス八世、中国日本へはゴア経由で、西インド・フィリピン経由は禁止→イエズス会布教権独占/家康、明との国交回復。朝鮮との和平実現目指す/蘭船リーフデ号豊後に漂着。家康、航海長W・アダムス(英人)を召す。ポルトガル人は処罰を訴えるが、家康無視、オランダとイギリスはメキシコ同様貿易相手として魅力的だった。
1601 朱印船貿易開始。ベトナム、シャム、カンボジャとの親善関係図る。フィリピン総督にメキシコと通商を希望。朱印船貿易→西葡にとっては新たな競合相手の出現→渡航数減少を要求/各地に日本人町が形成/セール『農業の劇場』労働は神の命じる義務。いかに土地から最大利益を上げるか。
1602 オランダ、連合東インド会社設立。
1603 江戸幕府/◆アイルランドのアルスター族、イングランド軍に降伏。アルスター植民地/エリザベス一世没。同君連合(スコットランド王ジェイムズ6世が英王ジェイムズ1世に=スチュアート朝。正式の統合は百年後):イングランドウェールズスコットランドアイルランド連合(統合)。ジェイムズ1世の支持は弱く、王建神授説を提唱。
1604 家康、松前氏に三ヵ上定書:松前氏支配確定。アイヌ往来自由、アイヌに非文(道理にもとること)を申しかけることを禁じる。松前藩アイヌに年貢を課さなかったがアイヌは既に和人との交易なしに生活できなくなっていた。藩は生活援助「介抱」の名目で交易。オムシャ(相互贈与)。しかしアイヌにとっては商場、知行主が制限される。ウイマム(交易)は次第にアイヌ従属の政治的儀式となる。
1605 フィリピン総督に基督教布教禁止を提示:「わが邦は神国と称し、偶像は祖先の代より今に至るまで大いに尊敬せり、予一人これに背き破壊することあたわざれば也」という根拠。またマニラ在住日本人帰国の禁止。長崎大村氏宣教師追放。毛利氏キリシタン老臣処刑。
・カタリナ号事件:蘭海軍ヘームスケルクがポルトガル船を拿捕→グロティウス「捕獲海論」で蘭の正当性。
1607 探検家J・スミス:英雄アイネーイスを想起しつつ北米ジェイムズタウンに入植。(1610 飢饉。人口500→60)/ローリー、煙草を英国に広める。
1608 パウルス五世、托鉢修道会の布教の認可。ジョン・スミス農業奨励のため「働かざる者食うべからず」
1609,2月◆島津氏、琉球制す:附唐(ふよう)国とする。聘礼使派遣問題の解決のため。家康、琉球を仲介し明との国交回復を策略。3月宗氏、朝鮮と己酉条約。5月 蘭船、平戸で通商要求、商館(対西圃のための軍事拠点)建設。9月西船(マニラ→メキシコ)漂着。前フィリピン総督ビベロ/12 月有馬晴信ポルトガル船撃沈(←前年マカオでの日本人殺害事件)、マカオ司令官ペッソア自害。/蘭グロティウス『自由海論Mare liberum』/ジェイムズ、無許可の外国人(蘭人)のブリテン島周辺での漁業禁止=閉鎖海洋論/イーコルキム法:諸島部政策:宗教再興、歓待奨励、怠惰・物乞い・深酒・火器携行を防止し、野蛮と無知と非文明を矯正する。
1610 幕府、ビベロにアダムズ建造の黒船を与えメキシコへ遣使
1611 幕府、ポルトガル、明に貿易許可/メキシコからビスカイノ来日(金銀島を探検、家康疑念、支倉使節船で帰国)。
1612  キリシタンと喫煙禁令/デンマーク東インド会社創設、インド、カリブ、アフリカへ/「テンペスト」初演
1613 ◆英、対日貿易開始:平戸商館建設:館長コックス:将軍をemperour、天皇をDirey(内裏)pope of Japan(法王・教皇)と書く/伊達政宗、ローマへ支倉遣欧使節。宣教師ソテロのスペイン国王宛て書簡で、将軍をEmperador、日本をInperio(帝国)と表現。政宗は奥州王Rey de Voxu/◆伴天連追放之文で金地院崇伝、日本を神国・仏国と規定(江戸国家の基礎としての非キリシタン国家)/ウェルウッド『すべての海洋法の要約』閉鎖海洋論:神は地上と海上を分割したので、諸侯は海上領有権を持つ。
1614 明、日本の要求拒否。しかし渡航船は激増。(仲介した琉球使節書簡の内容は不明)/スミス、メイン付近をニューイングランドと名付ける。サムエル・パーチェス「茶色のムーア人、黒人、薄黒いリビア人、灰色のインド人、オリーブ色のアメリカ原住民は、彼らより白い欧州人たちと、一つの偉大な牧者のもとに、一つの羊の群れとなる。…皮膚の色、言語、性、身分の差別なく、ひとつになり、永遠に祝福される」
1615 豊臣家滅亡。/武家諸法度:「文を左に、武を右に」→『神皇正統記』の「世乱れる時は武を右にし文を左にす、国治まる時は文を右にし武を左にす」に由来→家康、情況を乱世と認識/禁中並公家法度:一条「天子諸芸能之事、第一学問也」と天皇の政治介入を間接的に否定(史上初)。紫衣(しえ:朝廷の収入源)の授与禁止→紫衣事件。また天皇=国王→外交文書でも家康は国王を称さず「日本国源家康」、家光のとき「日本国大君」。
1616 鎖国政策開始。外国船長崎平戸に限定/ヌルハチ金建国、南へ侵攻開始。
1617 オランダ、スペイン・ポルトガルに対してマニラ封鎖作戦/崇伝、朝鮮国王への返書作成に際し、朝鮮は戎と規定。この朝鮮認識は、律令体制で中国と対等したことに由来し、伝統的観念の再確認だった。
1618 金、明攻撃を決定:七大恨の檄/◆三十年戦争神聖ローマ帝国におけるハプスブルグ家とブルボン家、ヴァーサ家の覇権争い。「最後の宗教戦争」で「最初の国際戦争」
1619 サルフの戦い:明朝鮮軍47万、金10万だったが金大勝、イェヘ部併合/京都でキリシタン52人火刑/蘭英共同防御艦隊創設、平戸を母港とする/黒人奴隷、ジェイムズタウン上陸。
1619,◆オランダ、ジャワ総督府。1621 バンダ島虐殺、1622、ポルトガルの拠点マカオ攻撃 1623ジャワから英排除 1624 台湾占領
1620 分離派、ニューイングランド(今日のプリマス)へ移住。メイフラワー契約で「政治的市民団」として署名。
1621 中国セイ江都督書簡、「王」の字以外木刷→崇伝「無礼」「慮外なる者」と怒。/◆三項目の命(武器輸出禁止など)→蘭英、平戸の軍事機能を喪失/西人モレホン「日本支那見聞録」(中国人日本人=パレスチナ人説。小熊:173)
1623 英国、平戸商館閉鎖/アンボイナ事件:オランダ人、アンボイナで英商館員10名、日本人9名斬首、インドネシアから英勢力排除(ベイリp22)。
1624  日本、イスパニアとの通商拒絶/オランダ、台湾に城塞。
1625 セラフィン・デ・フレイタス『アジアにおけるポルトガル人の正当な支配についてDe Justo Imperio Lusitanorum Asiatico』/パーチャス『ハクルートの遺稿ーパーチャス、その巡礼者』;自然は欧州産業に屈服する。/グロティウス『戦争と平和の法』
1627 台湾総督ノイツ来日、将軍と対等に外交できるのは国王のみとして謁見拒否される。キリシタン340人処刑/ヌルハチ、朝鮮侵攻/紫衣事件(朝幕対立。後水尾天皇退位決意)
1628 ◆ノイツ、朱印船捕縛で報復→蘭船平戸で抑留、商館閉鎖命令。またスペインが日本船捕縛→長崎でポルトガル船抑留(ポは当時スペイン支配下
1629 11/8後水尾天皇、幕府に通達しないまま、7才の二女に皇位譲位(院政開始)。武家に知らされない退位強行は前代未聞。幕府、この「非法」な践祚(せんそ)を追認。/ 幕府、朝鮮へ援軍派遣を申し出るが、朝鮮側は拒否/ポルトガルモザンビーク植民地化/チャールズ一世(ジェイムズ1世の子)、専制強化、議会解散。以後11年議会停止。
1630 耶蘇教の本輸入禁止。このころ江戸封建国家確立。島原城主松倉、軍船をフィリピン派遣。山田長政シャムで毒殺/◆英移民ジョン・ウィンスロップ船上演説(R.B:45)で移住を神との契約とする:新たなエルサレムの前身としてのアメリカ=アメリカのイスラエル:アウグスティンのカリタス(神の愛徳)とクピディタス(バビロン的貪欲・快楽・利益)のどちらを選ぶかと提起。英国的でないローマ的シンボリズムで思考。セイラムに上陸。以降1630 年代にはニューイングランドへ二万人移住.
1632 家光、武士困窮の原因を贅沢と考え、旗本衆へ「その身の分限に従うべし、私の奢り仕るまじき」とし、以降も生活の詳細を管理(微視的)/ロシア、ヤクーツク(シベリア開発基地)建設/説教「植民地へ向けて主の約したまえること」で新大陸をイスラエルになぞらえ移住を出エジプトにたとえたジョン・コットンもセイラム移住。コットンは予型論(現実を聖書の記述との対応で考える)で植民正当化。
1633 バラズ『ブリテン海域の主権』。ウルバヌス八世、全修道会の日本への布教を承認。
1634 琉球、慶賀使派遣→「通信国」として位置づけ。琉球使節は異国風を強要、日本化は厳しく制限。(中国冊封体制保持のため)
1635 キリシタン弾圧強化。海外在住日本人帰国禁止/セルデン『閉鎖海洋論』/朝鮮、蘭船員抑留:鞭打ち、18年→ハメル「朝鮮幽囚期」→ラペルーズ『世界周航記』:日本と朝鮮は異邦人を歓待せず、交流しない野蛮非文明の民=タタールの民は歓待の社交性があるから簡単に武力制圧できる、とも。友愛や歓待の精神はここで<帝国>の二枚舌として臣民化のための手段となっている(平川175)
1636 後金、清国と改める。英国、対支貿易開始/9月ポルトガル人との混血児ら287人マニラへ追放/日光東照宮完成、日本的華夷秩序を視覚表象するページェント装置/寛永通宝→中国貨幣の排除、貨幣独立
1637 島原の乱。オランダ船デ・ライプ号に攻撃要請、以降「御忠節」として記憶。夏、家光、完成した本丸に「華麗は無用」として作り直させる/◆米:律法や善行より信仰を優先するアン・ハッチソンをウィンスロップやコットンら異端として裁判、有罪判決。アン「貴方達は私の体に何の権力を加えることはできない」→ 1638 ハッチソン派、Body Politicを形成し、インディアンよりアクィドネック島を買い、ポーツマスに移住。
1639 日本:ポルトガル船来航禁止。オランダ商館長カロンに意見を聞くが、オランダ・イギリスにも圧迫。理由は基督教を普及させないため。
1640 ポルトガル船員61 人を斬首、船を焼く。
1641 鎖国完成:鎖国体制は朝鮮、ビルマのタウングー朝(1635‐1752)清の遷界令(1661)も/ アルスター反乱。カトリック地主ローリ・オモア指導。
・鄭芝龍、日本貿易に参入。鄭と暗闘するオランダは日本人に扮した伴天連が密かに渡航している、明の宣教師は活発という情報を幕府に伝える。実際、船員に信者が見つかる。またオランダはシャムの日本との交易希望を妨害。シャムから幾度も使節来日するが幕府は拒否。カンボジアでも同様、オランダは貿易独占に策を弄する。オランダ東インド会社日本商館、平戸から出島へ。◆オランダ、マラッカ占領、香料貿易独占:葡萄牙海上帝国の終わり(またイベリアではユダヤ人排斥→蘭へ亡命、ユダヤ人の東インド会社社員も多くいた)。英東インド会社も東・東南アジアより撤退し、インド経営に専念。
1642 ◆清、明を破る。日本では「華夷変態」として、「日本的内部=帝国」が意識されていく。王朝持続の点で日本が優位/英、議会軍と国王軍の内戦=ピューリタン革命:ジェントリ出身のクロムウェル、新型軍編成。
1643 土民仕置十七条。倹約励行、田畑永代売買禁止。
1644 明、援兵要請、幕府拒絶。ロジャー・ウィリアムズ「信仰の大義を掲げて迫害を説く血まみれの教義」でコットンらの予型論を批判:イエス誕生で旧約は役目を終えた、儀式・制度に囚われない「内面の自由」→のち政教分離・信仰の自由の思想へ。
1645 江戸市中のかぶき者を取り締まる。家康、「関八州鎮守」から「日本ノ神」へ。12 月 明皇帝の一族の唐王を助る鄭芝龍、援兵要請。
1646 例幣使制度(日光と伊勢) 9月唐王、再要請。紀伊徳川頼宣、出兵論。井伊直孝、中国朝鮮に領土を持っても無意味。
1648  ◆ヴェストファーレン条約三十年戦争及び欧州宗教戦争終了:ハプスブルク敗北、仏勝利:教皇・皇帝などの超国家的権力による欧州統合は断念。諸領邦国家による勢力均衡体制へ:諸国家は国際法上平等/ドン・コサックら武装集団コサック隊、毛皮を求めシベリア征服、太平洋岸に到達。
1649 ◆クロムウェルら議会派、王を処刑、王政廃止、Commonwealth成立。抵抗勢力(長老派、平等派)制圧。アイルランド征伐(ドロロイダとウェクスフォードの虐殺)。ぺティ土地測量→土地没収。
1651 航海条例(対オランダ)、翌年英蘭戦争ホッブズリヴァイアサン
1653 クロムウェル、ロード・プロテクター(護国卿)となり軍事独裁。厳格なピューリタニズムに基づき劇場閉鎖。
1655 イギリス、スペインからジャマイカを収奪。世界最大の砂糖生産地となる(茶・コーヒー消費の拡大にともない砂糖生産激増)
1656 共和主義ハリントン『オセアナ』:プロテクター政権批判/マキャベリ的ジレンマ(帝国と自由の両立不しがたい)をキケロ的に和解(自由を確保しつつ帝国を拡大する。世界の支配imperiumよりも世界の保護を)。   1657 クロムウェル東インド会社を株式に。
1659 西川如見『華夷通商考』/仏、西に勝利。
1660 ◆クロムウェル没後、王党派、チャールズ2世を呼び戻す=王政復古(〜1770年代産業革命まで):革命の失敗の反省→ピューリタニズムの神秘主義セクト信仰を退け、経験論・政治算術が勃興。
1661 ◆鄭芝龍・成功父子台湾占領、蘭駆逐/チャールズ二世とポルトガル王女が結婚、持参金はボンベイルイ14世、司法の建言権を制限し、絶対王政による親政を開始;ボシュエの王権神授説・ガリカニスム教皇からの独立):朕は国家なり。王のメチエ(国民への義務)
1664 イングランド軍、蘭領ニューアムステルダム占領/フランス東インド会社再建。
1669 シャクシャインの反乱(〜71)     
1670 年代 米大陸でインディアンと紛争。インディアン英側と仏側に分裂。
1678 チャールズ二世の王位継承問題(嫡子がおらず、また弟ジェームズは旧教)→ジェームズ即位反対派ホイッグと即位賛成派トーリー(しかし一代限りというつもりだった)の争い→1685ジェームズ即位。
1682 仏はルイジアナニューオリンズ植民(1710)/R・ローレンス:貿易の利益は国家の大事/ルイ14世ヴェルサイユ宮殿建設、人民にエティケットを細かく規定し開放。「王の庭園鑑賞法」:噴水の前で一休みし、周りの彫刻を眺め、王の散歩道、向こうの運河を見渡そう」。夏には連日祭典でバレエ無料上演。[ポトラッチ的]        
1684 服忌令
1685 ルイ14世プロテスタンティズム禁止令/ペティ「アメリカ植民問題」:アイルランドアメリカへの国策植民地移住を構想/クラウチアメリカにおけるイングランド帝国』→海外所有地を帝国の構成員と見ていない。
1687 生類憐みの令:以後肉食が控えられる/ペティ『アイルランド論』『問題』:アイルランド人の半分をイングランドに移住し、アイルランドを家畜放牧の地とすれば、当地に議会も不要。アイルランド住民を被雇用者とみなす:領土的帝国から閉鎖海洋論へ:「主権と帝国とはホッブズ氏がいうように大きな権力を意味する。帝国は、そこに生きる万民の生きた自由と財産に及ぶ権利と権力、そこで生産される万物に及ぶ権利を意味する。領海権は、領主がその土地で産出された穀物や家畜に有するのと同等の権利を、魚や海洋の他の生産物に有することである」「海洋は自然状態にあり、万民の万民に対する戦いがあった。すべての国々がその権利を一国に委譲すれば、平和と利益は続く」→ブリテンホッブズ的主権として出現。ペティは支配権imperiumと領有権dominiumを和解させる手段をホッブズに見出す。
1688 名誉革命:議会(ホイッグとトーリー一致団結)、カトリックを重用し専制的に常備軍を新設しようとしたジェイムズ2世と衝突、ジェームズの娘メアリ二世と夫オランダ総督ウィレム率いるオランダ軍を迎え、ジェイムズ二世を仏へ追放(処刑しなかったのは殉教者として同情を集めることを危惧したため)。権利の宣言。絶対王政消滅。「ニューイングランド領地」構想つぶれる。地主や貿易商を背景とするホイッグ党(のちの自由民主党)の支配、重商主義。ジェイムズ二世は仏軍と組み、カトリックアイルランドに上陸し、反乱を起すが、鎮圧/ウィレム(ウィリアム三世)英国入り→◆蘭東印会社は英東インド会社に覇権を譲る。英の海上覇権確立。
1689 ロック「市民政府二論」:領土より人口が、土地より人手が重要。また「世界は始めアメリカのような状態だった」(49)/権利の章典(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown):立憲君主制「王は君臨すれども統治せず」現在も有効。
1689-97 英仏植民地戦争/露、清との戦争に敗れ、ネルチンスク条約アムール川流域放棄。
1690 ホイッグ、意見書:アイルランド専制政治と絶対服従の発祥地ゆえ、ジャコバイト(反革命)的腐敗がイングランドに再導入される危険有/独博物学者ケンプェル、日本民族バビロニア起源説
1691 ペティ『アイルランドの政治解剖学』;ホッブズの自然的身体と政治的身体…政治的身体の均整、構造組織、比率を知らずに政治はできない。政治的身体=人口
1692 グレンコーの虐殺。セイラムの魔女裁判:ジョン・コットンの孫コットン・マザーMather裁判を正当化。
1694 イングランド銀行創設.メアリ二世没。   
1695 ケアリ『イングランド国家論』「イングランドとその植民地はひとつの身体。人々は手足」
1697  ◆露コサック隊アトラソフ、兵60人と大砲四門でカムチャダール族を征服、カムチャッカ基地建設。カムチャダール族のなかで暮らしていた日本人デンベエと会う。大阪商船乗組員で、他の船員は殺害されたり行方不明。
1698  アネズリ:貿易のための植民地(西インド諸島、アフリカ:入植者は本国に保護されるから独立要求しない)と帝国のための植民地(常備軍の負担を抑える)を区別。征服した国を従属しておくには武力によるか植民地。武力法は危険で高経費、植民地は歴史的=ローマ的に是認されており危険が少なく、我が国がアイルランド確保のためにしたことである。
1700 イスパニア継承戦争(英蘭独VS仏西)/『国仙野手柄日記』:近松の先行作品/大北方戦争(〜21)
1701  デンベエ、ピョートル一世に引見。皇帝、独自の日本調査開始(それまで情報は蘭経由)。
1702  漂流民伝兵衛、ペテルブルク日本語学校教官になる。ウィリアム三世没、メアリの妹アン女王即位。
1705  イングランド外国人法(スコットランドが前年、独自の王立権を要求)でスコットランドに制裁。人口5倍経済力38倍のイングランドに屈服。スコットランドダリエン植民地に期待したがイングランド妨害。
1707 グレートブリテン王国成立:イングランドスコットランド正式統合:スコットランド議会、自主解散。1708 オールドミクソン;米の英帝国。
1711  千島列島にコサックのアンツィフェーロフとコズィレフスキー。先年、日本船カムチャッカ漂着、カムチャダール族に襲撃され、捕虜となっていた日本人四名を救出。以降、探検にサナが同行
1713  コサック隊、パラムシル島制圧。アイヌのシタナイより日本の情報入手。和人・アイヌ・カムチャダールの複合的交易がなされていた/白石「采覧異言」執筆:インペラトル=帝・一総王、ローマ教皇=教化王/ダービー、コークス製鉄法開発(木炭から石炭へ)
1714 アン女王没、スチュアート朝断絶→独ハノーファー王国からジョージ一世を迎える:ハノーヴァー朝(〜現在):国政は内閣。ホイッグ党ウォルポール、事実上の首相。ホイッグ=自由主義、トーリー=保守主義。二大政党制。
1715  スコットランドで反乱/白石『西洋紀聞』:ゼルマニア→「大国、その君、インペラドール」/近松『父は唐土 母は日本 国性爺合戦』初演(和唐内=鄭成功三韓征伐神話に重ねられ神秘力によって韃靼人を帰順)3年7ヵ月興行。続編「国性爺後日合戦」「唐船噺今国性爺」は当たらず。
1718  ウィリアム・ウッド:貿易理論は崇高な科学。貿易規制は帝国の鍵。  
1720  幕府、禁書緩和令(キリスト教以外)。
1721 英国ウォルポール、責任内閣制開始。1730年代にかけてブリテン帝国イデオロギーが構想。ブリテン帝国は歴史・系譜・イデオロギーを獲得する(元来、帝国構想はイデオロギーであってアイデンティティではなかったAm:246)/◆英商務省、米植民地初の正式調査→本国と植民地との一体性はない、支配権は統合されているが、領有権はばらばら→王室による全統治体制を勧告→却下されるだけでなく、逆に帝国の不安定性を後にジェファーソンらにつけ込まれる:第一発見は帝国でなく個人であって、議会は入植者に関する権利を持たない/汎大西洋的帝国構想は不発に終わるが、大西洋世界のブリテン人に単一の政体構成員意識をもたらした/◆大北方戦争スウェーデン側に勝利したロシア、正式に帝国となる。
1724-29・33 ◆ロシア、ベーリング探検隊で極東北海洋調査。ラッコ発見→毛皮商人進出。毛皮は中国へ(ラッコ絶滅寸前)。またアイヌを征服、臣民化、毛皮税(ヤサーク)徴収→松前藩は千島のアイヌを通してロシアと交易。
1729  アルスター人ドブズアイルランドは帝国の宝石。ドブズウォルポールアメリカ開発計画(カリフォリニアとイースター島)を提出。
1731 スウェーデン東インド会社創設(清・広東。小規模だが、英仏戦争、米独立戦争で巨額の利益。1813閉鎖)
1732 オーグルソープ『植民地関係文書精選』マキャベリと政治経済学をつなげ植民地正当化
1735 ◆太宰春台『弁道書』:神道批判、国儒論争へ、幕末まで続く。
1737  スコットランド人ハチソン『道徳哲学大系』で領有権はたんなる占有では獲得できないと批判。また、母国が権力をふりかざすなら植民地は独立せよといい、「巨大で手に負えない帝国」を批判→ヒュームに影響。
1738 ボリングブルック『愛国王の理念』:海洋開放を目指す海上帝国の構想:植民地を母国の農場とし、艦隊に海を統治させる愛国的な王は、帝国と自由の理念を両立させることができる。
1739  シパンベルグ日本隊、千島列島測量、島に露名。仙台の田代島や網地島民と船上で物々交換。安房(鴨川)上陸、井戸から水を汲み、大根数本を抜き去る。伊豆でも目撃。仙台藩、藩兵数百人派遣。安房でも数十隻の漁船が動き出し、露船、逃走。6月幕府、異国人上陸の際は捕え、逃げれば追うなと通達。シパンベルグ隊は以降も日本に向かうが濃霧のため到達できず/ヒューム「人性論」:完全な厳密さや必然性を批判(蓋然性…):空間的隔たりは時間的隔たりに劣る=西インド商人はジャマイカを憂慮せざるをえないが、遠い未来を思うひとはいない→「帝国の遠隔作用」。人道主義的な感情のグローバル化、帝国における距離と感情の関係、大西洋の空間を超える帝国的接近の概念を思考(Am:255)。帝国を<無秩序→暴力・無政府→専制→自然に破滅>と批判/◆10月ジェンキンスの耳の戦争(イギリス対スペイン):スペインに貿易税を払わなかったイギリス船長拿捕され耳をきられる。英国民、主戦論(これ以前に反スペイン感情が形成←マドック王子伝説やラス・カサス報告など:Am256)→西インド諸島の解放戦争→翌年オーストリア継承戦争(〜1748)→七年戦争/◆プロイセンフリードリヒ二世『反マキャベリ論』:領地に対して超越的・外在的なマキャベリ的君主から内在的君主像へ:君主は国民に奉仕する第一の下僕:王の身体を国家社会のなかに内在させた。
1740 ジェイムズ・トムスン愛国歌「アルフレッド」:ブリタニアよ統治せよ、怒濤を統べよ、ブリテン人が奴隷に身を落とすことはない:この頃、ブリテンナショナリズム隆盛:国旗、国家、クリケット、チェス、バックギャモン成立。
1743 バルバドスの農園主アシュリ:ブリテンアイルランドアメリカ、東インド諸島、アフリカはひとつの帝国。
1743 匿名『市民政府論』→財産と自由をむすびつけるホイッグ(自由主義帝国主義ブリテン帝国=財産の神聖さに基づいたプロテスタント的で商業的海事的かつ自由の帝国。
1744 インド権益を巡って英仏戦争(カーナティック戦争〜1763)     
1748 モンテスキュー『法の精神』:マキャベリ的強制力からの脱却。
1749 都賀庭鐘「英(はなぶさ)草紙」→明の「白話小説」から、読本の形態をつくる。    
1754 久留米一揆17万
1756 英仏七年戦争開戦。ブリテン指導者=ウィリアム・ピット=帝国の産婆役。
1757 プラッシーの戦い:英、インド支配確立:◆敗北した仏は財政危機になり革命の遠因となる。
1758  オランダ、ジャワ支配/清、ジュンガル殲滅、新疆平定/宝暦事件天皇への闇斎派竹内式部講義に対し朝幕関係悪化を憂慮した関白ら、天皇近習を追放。1759  山県大弐「柳子新論」尊王排幕。 
1760 露、逃亡アイヌをパラムシル島に連れ戻す。     1762 ルソー「社会契約論」
1763 ◆英仏七年戦争フレンチ・インディアン戦争終結:仏、米とインドの植民地喪失(仏領カナダとインドを英に、ルイジアナを西に割譲。英、ハバナとマニラを西に返還、フロリダ獲得)。英の覇権確立→産業革命、農業革命、人口増加:織機・紡績機の改良→工場制/ 源内「風流志道軒伝」
1764 英、砂糖条例と翌年印紙法で米を圧迫→アメリカ独立戦争
1765 関東で20万人の大一揆。翌年には各地で一揆。後藤梨香『紅毛談』アルファベット掲載で発禁。
1766 明和事件尊王思想弾圧。山県大弐ら処刑/コサック隊チョールヌイ、ラッコ漁に来ていたクナシリのアイヌらからも毛皮税強制徴収。
1767 イエズス会、全スペイン領土から追放。フランシスコ会が取って代わる。スペインのパトロナート・レアル体制:王権が教会を従属させる制度。
1768-71 ジェームズ・クック太平洋探検、北米西海岸で毛皮発見。-70オーストラリア東海岸領有宣言。英海軍省命には、他の列強に発見されていない土地があれば、先住民の同意を得たうえで、領有せよ、住民がいなければ最初の発見者として目印をつけ、領有せよ、とあった。例えば78年カヤック島での領有宣言は、船名や日付の記録と銀貨と銅貨を二枚づつ入れた壜を木の根もとに置いただけのものだった。
1769 賀茂真淵『国意考』(春台『辯道書』反駁)。仏東亜会社解散。
1770 ロシア、アイヌ二名を銃殺。翌年、エトロフ島とラショア島のアイヌ、ウルップ島・マカンル島で20数名ロシア人殺害。ロシアによるラッコ漁独占と強制臣民化への抵抗。またこのころコサック隊より商人が主体となる。
1771 ハンガリー人でポーランドの反露運動家だった捕虜ベニョフスキー、カムチャッカ長官を殺害し脱出。日本寄港の際、ロシアの蝦夷侵略計画および来年以降の日本侵攻を蘭商館長宛書簡に記す。幕府は情報を無視したが漏れていた(平沢旭山「ケイ浦偶筆」他)。
1772 米J・ワレン:自由な憲法への崇高な愛着がローマを頂点にした。米におけるローマ主義;ローマ市民的自由=アメリカ的自由→英国君主制への拒絶
1773 教皇イエズス会を禁止(世俗化の行き過ぎ、また欧州国民国家の成立に伴い、国境を越えて自由に活動するイエズス会は邪魔。1814復興許可)
1774 「解体新書」→翻訳普及の端緒。本木良永「天地二球用法記」:コペルニクス地動説紹介/米ジョン・アダムズ:「ブリテン帝国」とはコモンローでなく、パンフレットの言葉。北米植民地の大半は1707の合同条約以前のもの→ブリテン帝国のイデオロギー的基礎をゆるがす/ナサニエル・ナイルス『自由二論』:海賊や泥棒が生きるための処世訓だとしてロック批判。
1775 千島航路開発およびアイヌ臣民化のためアンチーピン隊出帆、座礁/蘭商館長フェイト、林子平に露南進と蝦夷の日本領有を教諭。だが工藤平助は蘭の露脅威論は蘭の利害に関係し、陰謀論を主張(後工藤は改め露脅威論を採用)/◆米独立戦争:1740年代の大覚醒運動(回心conversion=革命と契約covenant=憲法:RB75)の影響。大英帝国分断へ。
1776 ペイン「コモンセンス」バージニア権利章典 7/4 独立宣言:トマス・ジェファソンら起草。アメリカは神の初子の国◆ジェファソン:全世代は世界をもう一度やり直す権利を持つ。また20年ごとに革命が勃発するのもよい。ジェファソンはベーコン・ニュートン・ロックを尊敬→ブレイクはこの三人の世界観を単一的観点single visionととらえ、眠りあるいは死と考えていた⇔二重的観点twofold vision/スミス『国富論』:自由主義による重商主義批判。貿易による財貨獲得は逆に金貨幣が国外に流出し、戦費増大とともに英経済は疲弊→経営危機にあった東インド会社によるアジア貿易独占を批判→関税撤廃、国債発行停止、貿易よりも労働生産力増大を(→1833)/秋成「雨月物語」/クック第三回探検、サンドイッチ諸島(ハワイ)発見。
1778 ◆イルクーツク商人シャバリン来日、松前藩通商拒否、初の交渉[北方海防問題]。露、アイヌ臣民化、1500名の新臣民がイルクーツクに報告。
1779 シャバリン再来日、松前藩拒否、ウルップ島への渡航禁止も通告。翌年ウルップ島は地震津波に襲われ、以降ロシア商人はアリューシャン列島に勢力を移す。◆エカチュリーナ二世勅令でアイヌから毛皮税徴収禁止。(理由は現地管理者が私腹を肥やすこと、アイヌ保護のための軍隊維持の費用を避けるため。帝国は「臣民」の保護義務があった。仮想敵は日本。もし日本と紛争すれば通商もできない)/クック探検隊(クック死後):富士山らしき円錐形の山を濃霧のなかに遠望。
1781 古学派の野村公台『読国意考』→海量『『読国意考にこたえるふみ』
1782 凶作、地震。大黒屋光大夫「神昌丸」出帆、アリューシャン漂着、エカテリーナ二世に謁見。
1783 工藤平助「赤蝦夷風説考」(ロシア脅威論):抜け荷の取締よりロシアとは正式に交易し蝦夷地を開発すべしと建言、翌年蝦夷政策開始。同書はチチングによって西欧へ紹介。東洋学の契機/パリ条約で米独立承認/浅間山噴火
1784 アリュート人、露人襲撃、強制労働と強姦が理由。露人狩猟団、報復。アリュート人と露人との紛争は以後も続く/八戸人口5万から2万に。仙台30万没→ 弘前人食い:橘南渓「東遊記」/江漢、銅版画/クック航海記刊行、流行。
1785 林子平「三国通覧図説」刊行、処罰/蝦夷地調査:東蝦夷探検隊ウルップ島に、西蝦夷探検隊は樺太調査。奉行松本秀持の蝦夷開発では諸国の非人七万の入植を提案。浅草弾左衛門も賛同し、開発従事によって百姓身分を要望/露、ソイモノフら皇帝にアラスカ諸島のクック領有宣言に対しベーリング航海を根拠に奪還すべきと陳述。皇帝、海軍派遣を指示。領有儀式の形式(ロシア国旗掲揚、壜)も決め、領有宣言を国家目標としたが、西欧情勢により中断。中国、キャフタ交易を拒否/仏、ラペルーズ探検隊、マニラ、日本海調査:千島列島南部は露支配及ばず、仏拠点は建設可能と王に報告:革命の混乱や毛皮暴落→北太平洋毛皮交易に仏参加せず/ワットにより蒸気機関、改良→川を離れ都市近郊に工場→工業都市
1786 最上徳内、三名のロシア人とエトロフ島で会う。イシユヨはウルップ島は露人とアイヌとの入会地であり、日本属領というのなら紛争当事者を処罰すべきだと詰め寄る。結局ウルップ島は日露共有地であることを確認/八月家治死亡で田沼罷免。蝦夷政策凍結。松平政権:蝦夷は現状維持、露との緩衝地帯、また蝦夷に農耕を教えると日本のためにならないとする/林子平「海国兵談」執筆:江戸より阿蘭陀まで境なしの水路也
1787 大阪江戸打ち毀し(天明の大飢饉)/森島中良「紅毛雑話」/露人と神昌丸漂流民、船を合作。アムチトカ島出帆、ニジニ・カムチャッカ到着。
1788 「蘭学階梯」。長久保赤水「地球万国全図」/浮浪人増大のため出稼奉公制限令/明誠堂喜三二「文武二道万石通」発禁/神昌丸船員イルクーツクへ。帰国を願うが、ロシアの役人になれと皇帝回答/司馬江漢が地図を人々に見せると、インド付近を見ていた女が極楽はどこかと尋ね、江漢:世界図は丸い物、其外は天。此様な世界が天の中にいくつも有。其うちに極楽世界があると答える:単一面の世界像と面的世界像/英、豪大陸植民地化。流刑囚アボリジニをスポーツハンティングなどで殺害。
1789 仏革命。8月人権宣言/蘭癖大名福知山藩主)朽木昌綱『泰西輿地図説』:西欧に三帝国:伊(ローマ),リュスラント(露),トルコ。ケイセル=王、モナルク=覇王、コヲニンキ=王。Keizerdom=「帝国」。「帝国」という語は江戸中期に翻訳出版された隋の王通『文中子』に。皇-帝-王-公の尊号序列:「強国は兵を、覇国は智を、王国は義を、帝国は徳を、皇国は無為をもって戦う」/◆5月クナシリ・メナシの戦い:アイヌ蜂起、和人71人殺害。原因は〆粕生産労働と姦通。首長ツキノエの協力で鎮圧。37人のアイヌ処刑。幕府、アイヌ蜂起の背後にロシアを見、本格的に蝦夷進出、苛烈な支配開始:アイヌ人口は二千いたが幕末には半減、明治13年には955人、明治24年には381人/恋川春町「鸚鵡返文武二道」、唐来参和「天下一面鏡梅鉢」発禁/尊号事件/◆ヌートカ湾事件:北米西海岸占有権を主張する西、英米船拿捕。翌年、英、謝罪賠償要求→西、仏露オーストリアの協力得られず屈伏。
1790 旧里帰農奨励令/石川人足寄場(社会復帰施設、心学を教育)/寛政異学の禁:徂徠学を抑圧、朱子学を奨励。朱子学の正学化。/五月出版統制。
1791 アイヌ救済のため最上徳内「御救交易」/三月京伝処罰、蔦谷重三郎財産半分没収/イルクーツク博物学者・商人キリル・ラクスマン、神昌丸を連れペテルブルクへ。神昌丸船員、エカチェリーナ皇帝に謁見/◆マカオで毛皮取引不調の米船、毛皮を売りに熊野に来航(堅徳力記=ケンドリック船長)/英アルゴノート号、対馬に(オランダと同じプロテスタントであることを強調しろと指示を受けていた):二週間ほど日本船に声をかけたが退去の身振りで断念、朝鮮へ。朝鮮も貿易制限で中国と日本だけに許可していたため拒否。 ※両米英船はヌートカ湾事件に関与、太平洋の東西が連接/ベンサム『Panopticon』/◆仏憲法:nation(国家・国民)主権→抽象的nationは主権者で、その代表者はnationの利益を代表する(純粋代表制)ゆえ、代表者への命令委任を否認。これに対して人民主権派は、人民が主権者であり、具体的な人民の利益が政治に反映されるべきで、命令委任は肯定。
1792 ,9月ロシアのアダム・ラックスマン(キリルの二男)ら使節根室入港、アイヌ偵察に対し大砲を放つ。光大夫ら三人の漂流民引き渡し。ロシアは名分を持っているので定信悩む。/12月、幕府、異国船への警備を諸地域に命じる:抵抗すれば船を壊し、捕らえよ。
1793 ,6月使節団、松前へ。ページェント行列。日露会談。ラクスマン、正坐を拒否。漂流民謝礼と長崎入港許可証の「信牌」を渡す。定信、江戸入港を恐れていた。このとき使節団は長崎に行かず帰国/ルイ16世、革命広場で処刑。モンターニュ派独裁。公安委員会。
1794 ◆光大夫と桂川甫周著『北サ聞略』:「世界に四大州(アジア、西欧、アフリカ、アメリカ)あり、そのうち帝国は七つ、皇朝はそのひとつ」とある。ヒュブネル『ゼオガラヒ』(1769)などを引いて甫周は、ロシア・ゲルマニア・トルコが「皇帝統御国=帝国」、ポルトガル・スペイン・イギリス・フランスが「王侯所理国=王国」、シナ・ペルシア・インド・日本が「帝国」。→この「七帝国」情報が「帝国」的自己認識と天皇優位の認識へ(平川p.124,130)/桂川甫周「地球全図」にクック航路記入さる(原図はラクスマン持ち込み→海洋帝国イギリスを認識する)/ロベスピエール派処刑される。恐怖政治への報復として白色テロ
1795 オランダ共和国滅び、翌年バタビア共和国ができると仏の属国となり、英と交戦/英、マラッカ獲得/イルクーツク商人シェリホフ、ウルップ島に40人入植/若宮丸漂流、ロシア人に保護され、イルクーツクへ。しかし翌年皇帝没し、商人間で通商計画を巡り衝突
1796 英船エトモ来航、測量。幕府、蝦夷地見分役人を派遣、北方警備。エトロフ島に標柱「大日本恵登呂府」を立てる/白蓮教徒の乱(〜1804)
1798 本田利明(重商思想)「経世秘策」:焔硝・諸金・船舶・属島の開業が「海国日本」の四大急務/「西域物語」:人口増加のために航海・交易が必要:鎖国後日本は無知(儒学経世論の「藩意識」を無視、中国でなく西洋を手本):ロシアの千島列島属国化→アイヌ撫育、カムチャッカ植民提案。
1799 ◆蝦夷、幕府直轄地/オランダ東インド会社解散:蘭植民地、仏と対抗する英国に接収/シェリホフ案のロシア・アメリカ会社設立認可(国策会社)
1800 伊能忠敬蝦夷測量/エトロフ島に商取引会所設置。アイルランドイングランドに併合。
1801 ウルップ島に標柱「天長地久大日本属島」、露人にアイヌとの交易禁止を通達/ケンペル『日本誌』部分訳の志筑忠雄『鎖国論』:「ケイヅル=帝号」として日本の天子・公方、シナの帝、トルコのミュルタン、ロシアのカサル、インドスタンのモコル、ゼルマニアのケイツル→篤胤らにも影響/英アイルランド併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国/米第二次大覚醒運動:キャンプミーティング(野営天幕集会)
1802 露 アレクサンドル皇帝、世界周航探検許可。
1803 山村才助「訂正増訳采覧異言」(写本流布していた白石「采覧異言」の影響):インペラトヲル・ケイザル=帝者。帝国は神聖ローマ帝国・露・トルコ・シナ・ムガルの五つで「西人、また呼びて帝国とす」る国にペルシア・エチオピア・モロッコ・シャム・日本・マタラム(ジャワ)の六つ→水戸学に影響/函館奉行アイヌのウルップ島渡海を禁止、ロシア人退去が目的/4月若宮丸漂流民、露皇帝に謁見。7月レザーノフ使節団出帆:金銀島探検も一目的。
1804,10月レザーノフ長崎入港:重警備で使節団、武装解除される。幕府指示を遅延/ハイチ革命。ナポレオン皇帝に/トレビシック、蒸気機関車発明
1805,◆3月幕府、露に通商拒否を通告:長崎では幕府批判。通商反対派の老中戸田氏教と天皇が通じ幕府と対立:天明期以降、朝廷再興の動きがあり、天皇の権威が徐々に浮上/百姓の武芸習得禁止(庶民の脇差は許可されていた)
1806-7 文化露寇事件:ロシア、樺太侵攻:フヴォストフ、日本人居留地襲撃/◆ナポレオン、欧州支配、大陸封鎖(対英)、オランダは王国へ、神聖ローマ帝国滅亡:領邦国家は何にも従属しない存在となる:反ナポレオン感情とsovereignty(主権・至高権)の行き先としての国民国家ナショナリズム勃興→君主主権派と人民主権派で対立、折衷説として国家主権説(→天皇機関説に反映)/橋本稲彦『辯読国意考』
1807 幕府、天文方の高橋景保に世界図作成を命じる/大槻玄沢『環海異聞』:インペラトリ=帝爵=帝号の国にロシア・シナ・日本。玄沢、ゼルマニア・トルコ・インド追加(ペルシアはすでに1798滅亡)→「六帝国」論。「日本は土壌狭小なりといえども、皇統一世、万古不易。帝爵の国号にして、他の諸邦に優れるもの、外域のもっとも尊重畏服する所以」/フルトン、蒸気船発明/イングランドスコットランド合同/フィヒテドイツ国民に告ぐ」
1808 英、ポルトガルマカオを攻撃/英船フェートン号、長崎でオランダ商館引渡し要求:当時長崎は鍋島藩年番で入港予定もなく番兵もわずか、責任を問われ長崎奉行処刑、佐賀藩も処分→佐賀、軍事改革。
1810 高橋景保「新訂万国全図」:樺太は島/◆レザーノフの船長クルーゼンシュタイン『世界周航記』で日本海軍の弱さを記す(七帝国論も含めそれまでの日本強国論は利益を独占したいオランダの戦略だった)。12門の大砲と軍艦一隻あれば十分、サハリン侵略可能とも。
1811 英、ジャワ占領/ゴロブニン、エトロフ測量。日本、国後で砲撃、捕囚。露のリコルド、高田屋捕囚、人質交渉/◆清、欧人の内地居住・布教禁止。英は対清貿易赤字対策としてアヘン売却。清と英は貿易を巡って小競り合いを繰り返す。13年阿片禁止、15年阿片輸入禁止/江漢『春波桜筆記』で「上、天子将軍より、下、土農工商非人乞食に至るまで皆もって人間なり」
1812 リコルド来航、白旗。日露交渉。ナポレオン、ロシア侵攻。
1813 イギリス総督ラッフルズ、オランダ船を日本へ派遣。インド独占貿易終了。
1814 幕府、エトロフ島を国境に/ナポレオン、同盟軍に敗北、ブルボン朝復活◆ウィーン会議:正統主義Legitimism:革命以前に戻す復古主義
1816  英軍艦、琉球に通商を請う。朝鮮にも来航。
1817  英船、浦賀沖に来る/工藤平助の長女只野真葛『独考』で儒教批判、古代女権、ロシアの恋愛結婚を憧憬。
1820 英国、ウインザー朝  
1822 ヘーゲル歴史哲学講義「イングランド人ならだれでも、自分たちこそ大洋を航海し、世界貿易を手中にし、東インドとその富を所有し、議会や裁判所を開いた、というだろう。民族に自尊心を与えるのはこうした行為なのです」    
1823  佐藤信淵「宇内混同秘策」 
1824 ◆武装した英人12人常陸上陸、薪水を要求。捕えられ、会沢正志斎と筆談:英人は捕鯨のためと弁明したが、会沢は英帝国の情報を知っており納得せず。翌年『新論』:甫周の七帝国説、山村の十一帝国説を引用、父子一体論(一気論的生命観)を基礎に、皇統一姓無窮論を提唱。日本は皇統一姓であるがゆえ優越/英蘭協定でマレー半島の英支配確定/英緬(イギリス・ビルマ)戦争:ビルマベンガル割譲要求が原因。
1825 ジャワ戦争(蘭対ジャワ)/異国船打払令/スティーブンソン、蒸気機関車発明→鉄道産業興隆。英、機械輸出解禁→産業化が世界化。  
1826 英領海峡植民地(マレー半島)/頼山陽日本外史
1828  豪、開拓地に侵入するアボリジニを英兵が自由に捕獲殺害する権利を与える法律;アボリジニ、ブルーニー島の収容所へ→90%以上減少。
1830 オランダ、ジャワに強制栽培制。 七月革命
1833 中国独占貿易終了により東インド会社は商事会社としては終わる。
1834 英国の貧困問題で救貧法改正→自助の精神(スマイルズ)が奨励=「自己責任」の論理
1837 ◆米モリソン号浦賀入港、撃退されるが、防衛力の弱さを確認:貿易商キング、帰国後、江戸湾封鎖による開国要請を提案/大塩平八郎の乱
1839 蛮社の獄鳥居耀蔵によるフレームアップ。発端はモリソン号事件に関して長英が「戊戌夢物語」で異国船打払いを批判したこと、また崋山に知識を借りた江川英竜に鳥居が敗北したことが原因となっている。崋山は「慎機論」で幕府批判をしたかどで投獄されるが、「慎機論」は逮捕以前に公表されておらず、家宅捜索時に発見されたものである。崋山は投獄後、二年後に自殺。(また鳥居は遠山金四郎と反目、失脚→悪役のモデル)
1840年 ◆阿片戦争(〜42):阿片貿易拒否を理由に侵攻。また香港割譲も要求。英議会賛成271反対262の僅差で通過。 1841 ジョン中浜万次郎漂流。
1842 年水野忠邦天保の改革人情本出版禁止、処罰。直後、柳亭種彦死。歌舞伎小屋を浅草へ強制移転、官許制にし、江戸三座制(中村、市村、森田)