勉学遊戯(死亡遊戯としての)

イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの文体は緊密で圧縮されたものだが、それは直接指導を受けたハイデガーとそしてなにより氏がイタリア語版全集監修者を務めるほど入れ込んだベンヤミンによるのだろう。一読して幻惑するような華麗な文体のバロキズムを持つフーコードゥルーズとは趣が随分異なる。
 ある企画で原稿をまとめていて、一年ぶり位に猛乱読し、未読の本のみならず、既読本をいろいろ読み直した。未読の本には英米法制史の一連の本があり、それはつまりマグナ・カルタからイギリス革命あたりは知っていたようで知らない領域だった。既読本の再読には、相も変わらずハイデガーとかドゥルーズとかフーコーで、しかも社会学者のジョック・ヤングまで読むことになり、20歳頃のプロブレマティックから何も変わっていないことに改めて自分で驚く。問題が全く解決されておらず、それゆえのことではあるとはいえ、個人史的にはその回帰振りになにか老いのようなもの、あるいは熟成というがよいか、そう感じた。
 しかしあらためて80年代までの思想界の英雄たちの論を、なんといえばよいか、そのまま読んでしまうと、古臭くも感じるところもままある。これはむかし、シャルル・ペギーやティヤール・ド・シャルダンとかを読んで感じもしたことに似ている。つまりは文における時代性の巻きこみといえばよいだろうか。
 アガンベンは90年代以降、いや、2000年代以降、バディウジジェクネグリらと並んで読まれている。それで、それ以前の英雄たちの本を再読したことで、あらためてアガンベンが非常に魅力的に思えてきたということを書きたかった。アガンベンのベンヤミニズム的文体のコンテクストは当然、かの英雄たちの著作群にあるわけで、その本と本との関係のありかたが今回の死亡遊戯乱読によってより判明に認識できた。
 アガンベンについてはそのオタッキー的または文献学的ー文字通りフィロロギック(文を愛する)なスタイルを批判するひともおり、私も自分の関心がアガンベンほどないのにも関わらず、そう感じ批判していたこともあった。いまおもえばこの手の批判というか論難とは、自分が勉学しないための言い訳にすぎない。読まずに批判するのは本当に愚かしいと反省(しかしこの手の論難をするものは実に多い)。
 

 アガンベンは『例外状態』のなかで

もはや実地には用いられず、もっぱら勉学のためだけの法こそは正義の門である

というベンヤミンカフカ論のなかの言葉を検討する。ベンヤミンの高名な「暴力批判論」についてすでにデリダは「法の力」で批判している(そのなかでデリダは条件つきではあるがベンヤミンへの決別をさえ表明している)が、アガンベンは明らかにこの本を書くにあたってデリダと対決している。
 ベンヤミンの直面していた問題とは、未来において法がメシアニズム的成就をなしたあとで、それには何が生じるのかというパウロ的問題であった。そしてそのヴァージョンである、階級のなくなった社会において法はどうなるのかという問題であった。後者はパシュカーニスとヴィシンスキーの「法の死滅」論争の争点であった。
 これらの問題に応答するなかで、「もはや実地には用いられず、もっぱら勉学のためだけの法」は正義それ自体ではなく、正義への門、すなわち正義への道程であると考えられる。
 これはすなわち、法のもうひとつの使い方としての、法を無活動の休止状態に置くという戦術である。ベンヤミンの神話的・法措定的・法維持的暴力とは異なるものとしての神的暴力について、解釈は難しく、デリダの懸念する「最終解決」的思考も認められるのだが、その革命神学的問題にはいるまえに、これがゼネラル・ストライキによる抵抗の正当化であったことを忘れてはならない。
 日本では労働組合または労働運動は、非正規労働者運動という少数の例外を除いて、殆ど存在しない。それはすべてお金で解決したからであるし、お金こそが目的であったからだ。生活環境や社会環境、そしてなにより労働条件、時間環境についてはまったく放置されてきた。その結果が数年前の「世界第二位国」というステータス意識だったのかもしれないが、そのステータスが地盤から崩壊した以上、根拠がなくなってしまった。(続く)