「トラクトアTRAKTOR/トロープス」

当時の記録より。
IMAGEOPERA》Contre-Attack《 Projet
「トラクトアTRAKTOR/トロープス」
上演日程:2003/12/16(火)−18(木):いずれも19:15開演
テキスト:H.ミュラー、シャルル・ペギー、F.ヘルダーリン、H.v.クライストほかトロープスによる
構成・演出・振付・イマージュ:脇川海里+共同制作者
構成・調整協力:綾原江里
出演:野澤英代、キャサリン・ドイル、相良友美、大谷マサル、野口加津美、森脇ゆり、印波俊雄、愛甲常幸、富岡千幸、石川祥子、脇川海里ほか
美術:宮地幸+大谷マサル  ドラマトゥルグ・音響:長谷川健治朗+中西如夫
照明:溝端俊夫    
協力:西田敬太郎 、大山景子、蓑口季代子、イオアンナ・ガラゴーニ、高橋由希、吉村二郎、並木誠、(株)田辺薬局、佐藤淳一、(有)カワスミ
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プロフィール
脇川海里ワキカワカイリ:
舞踊家詩学研究。1973年長崎県佐世保市生。社会人類学詩学を遊んだ後、大野一雄慶人父子、笠井叡、スザンネ・リンケ、へンリエッタ・ホルン、ライムント・ホーゲらドイツ表現主義系統の舞踊講座を受ける。自身の舞踊をゴシック舞踊とし、中世において幾何学が自己運動する機械と化し暴走するようなゴシックの運動の、現働化・身体化をめざしている。イマージュオペラ主宰。
作品に「低き炉のマッス/牧歌」「カタモルフォーズ」「譚詩時代のゴンドラ棺」「測量士」「On my volcano grows the Grass」など。

イマージュオペラ
脇川海里によって推進されてきた運動体を総して付された名称。近代性の形成史を軸問題としながら研究を続けた後、すべての問題は言語の問題であると考えるに至り、とりわけ詩的言語の理論的および実作を含めた実践的解明を続けてきた。しかし生と言語との反転したそのような方向のなかで、いくつかの過ちを犯し、一度徹底して袋小路に陥った。身体の問題を看過していたのだった。幼児が身体図式を獲得する過程は舞踊である。それは生命の誕生と等しく奇蹟ともいえる。それと同様に社会運動、あるいは言語運動/詩作のなかで失われた身体を、舞踊的身体として変成させる過程もまた奇蹟でもあった。スピノザは、わたしたちは身体がなにをなしうるか知らないといった。私もすでに幼少から舞踊と出会っていたとはいえ、ひとつの体がかくも何事かをなしうるのかを知らなかった。ある夜に、私は運命ノ神に導かれ、大野一雄笠井叡吉増剛造田中泯…そして、土方巽公らと出会う。意識の殻に穴をあけ、道徳のくびきを食い破り、宇宙線と接続していくような、本能とでもいうべき非人称的な力の流れ。原子爆弾の衝撃への対抗贈与が、かれらの舞踊であったのかもしれない…だが歴史はかれらを回収するだろう。アルトーをも回収するこの歴史という怪物に抵抗するには、体を厳密に把握するしかない。身体の状態であって舞踊ではないのかもしれない。
舞踊とは何の謂いか。舞踊とは力の運動であった。だが、舞踊はいつしか一般言語/コードと堕し、悪しき反復としてのステレオタイプばかり生産される。消費されるための生産品として、有閑階級の嗜好品として、…。だが体は正直だし、生はいつも自身を裏切り続ける。生が抵抗する…あるいは生とは抵抗のことだ……私は身体の復権などということを言いたいのではないし、精神について語りたいわけでもない…「欲望や精紳であるものすべては、身体の憎しみを前にして消えるしかない」…そうだ、この大いなる身体の憎しみ…「身体とは、人間のなかで苦しんできたもの、ある日人間になるに値したものすべてであり、精紳はそれに値しなかった」…人間について…長いあいだ、わたしは人間になりたいと願い続け、そうしてついに人間になれなかった。だがいまや私は知っている。人間である必要などはなかったのだ。むしろ私は人間であることから逃げ出そうと思う…お前は人間ではありえない…「魂のはじまりにある体、それは生において生に目覚めること」……私は確信する、たとえこれらの言葉が「患者」の落書帳に書かれたたわごととして廃棄されていたとしても、それは真理に関わっているということを。ここに認められる思考の運動は、言語と身体とが分割されるその前夜における争いの、争いそのものとしての運動だ。名付けに抗う徴たちが運動する、アントナンのなかで、かれは舞踊そのものだ…身体に住まう徴たちの潜在力に引き摺られつづけた彼は正直すぎた。電気ショックと失神とが永遠に反復するかと思われた。だがもはやかれから舞踊する思考を盗み出すことはできなかった。わたしにはA.A.は理解できない。だが私はあれらの言葉と関わりを持ちつづけていきたい。私にできることはそれくらいだ。…もういいだろう。ミュラーからA.A.へ…A.A.からB.B.へ…わたしたちは真実と関わる勇気をもたなくてはならない。ベルト・ブレヒトの方へ…あるいは再びA.A.の火山へ……それゆえ私はポトラッチを、消尽をこそ行おうと思う。世界を構成するすべての要素を、あらいざらい検証し、とりわけ空間を消尽する…わたしたちは無為の共同体を結成し、無為のバリケードを築く。新たな身体言語(ゲストゥス)を見い出すにあたって、私には他の選択肢は考え付かなかった…私は言語を愛しすぎたのか、いやあれは恋というがふさわしく、私は言語について何も知らないままでいた。分節言語の猥雑さ、その魅惑について。…何も考えることができない、何も読むことができない、何も書くことができない…ひとは死に続け、そうしていつまでも死にきれない…死の練習…アルトーのいう残酷とは、デリダの読解によれば、必然性と厳密性とのことを指す。今日の演劇に欠けているのは、ただ単に、厳密な思考と、必然性を獲得しえた身体なのではないか。そんなことは不可能だ!だが今日、不可能性のただなかにとどまる以外に選択肢はあるか。私だって枝で休む鳥になりたかった。
言語の問題が身体に集約されるのか、それとも身体の問題とは言語の問題であるのか。あるいは心身は平行関係にあり、ついに交差することはないのか。現時点ではこれらの問題への切り口として、イマージュ(翻訳不可能である)を据えて、探求を続けている。舞台での上演とはそれゆえ研究発表の場でもあるが、実際にはさまざまな不確定要素が介入する。しかし、結局研究とはなにより思考の運動であるべきなので、そうした実践的問題はむしろ好機ととらえるべきだ。イマージュオペラとは、こうした、言語と身体を根本問題とした、運動体である。補足すると、オペラとは、歌劇の意味ではなく、ラテン語のopusの複数形で、原義は労働、作品という。言語を分解する。外へと触手を伸ばす思考の運動も、外としての内へと向かう舞踊―身体の運動はともに運動イマージュに関わっている。
ひとかけの衝撃があった、それは愛ともいいかえられる、恩寵への対抗贈与、ロロロ、お前の口!

以下はフェス新聞に寄せた文である。

1.

上演は封鎖され、もはや為すべきことはなかったはずだった。世界の示す卑劣さは至る所に槍の雨となり貫通していく。もしかするともう何も選べないのかもしれない。だが名を奪われたしるしは、死のクレバスに落ち込みながらも、抵抗線を引く。それは 非人称的な力のゾーンにおける中世的な幾何学の暴走、消尽する機械。舞踊とは抵抗、分割前夜に争う裸形の事故としての対抗暴力。舞台とは無為のバリケード。だがそれは来たるべき宇宙への穴である。

2.

わたしたちは灰へとなりたい。「恋する灰」、ケベードの灰へと。炎の荒ぶる運動を受け、みずからのもとに留まろうとはせず、決して回収されることのない灰。女たちが火の周りでロンドを踊り、母親たちが叫ぶ。燃やせ!燃やせ!灰はすべてを通過してきた。灰は廃棄物ですらない。真理とは灰でもあった。だが真理への関与はおぞましき行為とされる。私はただ愛しただけだ。もう取り返すことのできないもの、失われたもの、消失の徴を。愛の狂気、それが私の世界感情だ。

3.

悪しき反復としてのステレオタイプはひとかけのショックすら贈与しない。何もかもが一般言語/コードと堕してしまっている。私を生より遠ざけ、私から生を奪う誰かがいる。私は敗北した。私は消失した。いや、私はいまだ生まれていない。身体の最底辺には火があった。身体の憎しみを前に一切の言葉は消失し、刃を首に当てられた徴たちが暴走する。そも舞踊とは抵抗する力の運動だ。すべてを燃やし尽くしながらそれ自体はつねに消失していくような非人称的な力の流れ。「私」は存在しない。「人間」もそうだ。「私」以前の、「人間」以前の身体の状態が、穴だらけの皮膜から、消尽せよ、と定言命法を投げ付ける。身体は自身を、苦痛を、囲い込む、そうして自らの空間を産み出していく。生まれる前の、死んだ後の生が住む場、それは否定性を、死をも呑み込むだろう。畜生!被造物と俺はまた死ねなかった! 火から灰へ。灰から火を。私はそこに火しか見ない。