時間の規律、舞姫

遡ってダイアリーを書いてみよう。わたしはこのダイアリーを、備忘録=メモとして書くわけだから、なにも時系列にそわせることもない。時間は伸び縮みするわけだ。つまり中心となるべき一点の起源は、時間にはない。そういえば、時間感覚も、ニーチェのいう道徳として機能もしている。時間は道徳の媒体として処理されてもいる。たとえば、悪徳としての遅刻。会社、学校の時間管理において、それは前提的な次元における悪徳だ。私は必ず遅刻するというタイプでもないが、遅刻はよくやっていた。体育哲学(竹田美喜夫さん)の授業で、なぜ遅刻するのか書いて来いといわれたが、そのときは書くことがきなかった。
 遅刻はだらしないエゴイズムとして観念されている。それは工場の管理方法から来る発想だろう。遅刻論も、フーコーの監獄の誕生をちゃんと読み直しながら、整理したい。私は一方で、遅刻の権利をも認めるが、他方で、認めもしない。私のなかで過度に規律的なものと、過度に統御されないものとが同居している。一般的なレベルでは、むろん遅刻は行われるべきではないだろうが、ここも考え抜きたいところだ。
労働時間が8時間だと決まっているとする。五分の遅刻と、五分の残業は、時間の計算からいえば、同じことだ。しかし、5分の遅刻は、5分の残業によって、補填できない。誰かの話だった。たしか日払いのバイトの話だ。30分残業だと、雇用者は、残業代を支払わなくてはならない。その雇用者は卑劣な男で、ちょっとお願いとかなんとかいって、20分残業させる。そして残業代を支払う義務が発生しないように、5分で帰り仕度をさせる。この話は本当の話だし、ああよくあるよね、とかそんなことで片付けられる類の話だ。労使関係の力関係において、そうしたことは問題にされない。通常、残業などはごく当然のことだし、それこそ会社への忠誠心の問題としてそれは処理されている。ああ!サムライ(士)だ!
 オカミに従え的感覚はほんとうに根強いと思う。まあこの話題に限りはしないが。そしてそこに疑義を呈しようとしている私にもそれは忍び込んでいる。舞台創作においても、私はデモクラシー形式を選ぶわけで
あるが、やはり多数の人間にとっては、デモクラシーは嫌悪される。全体は一括に統御されるべきだという意見はよく聞かされた。当然だが私は悩む人間だ。簡単に決断してしまう前に、念入りに考えていくタイプだ。いままでの人生でもそれが裏目に出たこともあれば、効を奏したこともあった。むろん決断はする。それを行うくらいの勇気はしっかり持ってもいる。私がいいたいのは、検討する時間がないというときにも、ぎりぎりまで検討することは絶対に必要なことなのだ。極限まで追い詰めれば、なにかまったく新しいことが出て来たこともあった。いつもではないが。検討あるいは分析を徹底して貫徹させること。むろんそれにもさまざまレベルがあるが、私はその点に関しては怠惰ではありたくない。坂道を降りるとき、どのように導線を引けば、もっともはやく下れるか、その答えは、なんということもないが、そんなことを考えていた私が、原型にある。あれは誰か。計算する理性…計算的理性…デリダハイデガーがそのへんを論じていたはずだ。


舞姫の会。
 俳句と舞踊の相性の悪さについて。俳句は2語、3語で空間を構成し、割り切ってしまう。
 俳諧の精紳は、笑い逃げを生む。照れというものか。速さ。笑いの速さ。それだと体のなかの作業が残ら ない。体はひとつの語をごねごねしながらあれこれ試行錯誤していくものだ。
 事実性は「思い」(主観)と異なり、あいまいさがない。
 ごねごねしながら、なにかすっと流れてくる、それが当事者の表現というもの。→流出論
 移動という行為のきめこまかい襞。そのひだを丹念に追っていく。
 その追究行為の充実感。
 自分のなかに自分を開いていく。
 「手段」(方法)は必要だ。それを探すには体の機能を点検していくことだ。
 新しい景色を見ると、じわっじわっと自分を満たしていくようなことがある。
 自分の主題(内的条件)と、覗き込まれるという外的条件(の交差)
 環境と関わる技術。