ヴァリエーション

スタジオに着く前、電車のなかでユリイカのデュラス特集をぱらぱら読んでいたら、デュラスと音楽について触れたエッセイがあった。デュラスの翻訳をやってらっしゃる田中倫郎さんの「風を追うデュラス」である。その音楽との関係というのは、新保祐司氏の「ブラームス・左手・ヴァリエーション」という論文の紹介の際に書かれている。
 ブラームスはぼくも好きな作曲家であるが、彼は変奏を作曲の中心としてきた。云々。「主題は、変奏によって主題となる」云々。そしてデュラスも変奏曲愛好家だった。ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」については、別の情報でも、デュラスが使用していたことは知っていた。
「ディアベリ変奏曲」といえば数年前、たしかビュトールの本を手にした際、こりゃ聞かないとだめだと思い、買って聞いたが、難解だった。リヒテルのバッハのように音が流れ始めると、眩暈に巻き込まれて行くとか、そういうものではなく、たぶん「知的な」ものなのだろう。聞き込みたいとも思ったけれど、まだぼくには早かった。
 それで、早速、スタジオ入りしたら、今回大いに協力してくれている笛田宇一郎さんとのおしゃべりをつづけながら、主題を4つくらいに分類し、さらにその4つの主題にそれぞれセリー系列を作り、「変奏=ヴァリエーション」を形成するための下準備として、まとめていった。
 そのメモを下にして、デティールは問わず、とりあえず流してみようと思い、いざ流しはじめると、すいすい流れて行く。省略、早送りでやったとはいえ、全体で30分でこれまでやったシーンがまとまった。
なによりも驚いたのは、主題/セリーに乗ってやっても、全然振付というか舞台として成立するということだった。それまでのシークェンスとはまったく異なるのに、舞踊的時間として成立していたことに対し、ぼくはいかにいままでテマティックにイマージュブロックを捉えていたかが分かる。そうか、時間の流れに線的なプロットとかドラマトゥルギーなどを織り込むといっても、そんなのはまあいってみれば二次的な問題なのだ。ことダンス/音楽に関しては。この分類も思えば曽我さんのものだ。
 ダンス/音楽の領域と、言葉/演劇の領域との差異について。
 今日は、また花佐和子さんも来る。たいへん、楽しいし、向こうも喜んでいた。
今日のリハーサルは「知的な作業」で、なんか、すっきりした稽古となった。いつもは、存在論/実存論的に舞踊/身体とはうんぬんみたいな話しだったから、あれだとみんなげっそりするから今日みたいな日も時には(!)いい。
 あとはストンピング。野沢さんは計30分くらいやってた。おそるべし。ヒデヨティック。全体主義者。
相良さんとも疑念が解消し、きょうは穏やかな稽古だった。