部屋について

今日は、direct maleの製作。本番4日前の。あほである。しかし出さないよりは出した方がましだろうということで。何十枚も一気に作ってると、時間の感覚がなくなる。時間感覚の麻痺は、他の作業でも、たとえば読書とか、議論とか、アルコールとか、稽古とか、いろいろあるが、郵送物による時間喪失は、メルヴィルバートルビーを想像させる。あれは別に郵便局ではないが、「事務」という労働作業という点で。カフカの言語空間も、どうしても役所的事務作業の、においがする。それは情報としてカフカが公務員だったということを私が知っているからではない。密室性、閉塞性、つまりは「部屋」のなか。室内空間。
 薄暗いスタンド、蛍光灯、タバコの煙と香り、コーヒー、紙をめくる音、静かだがなにか重い、あるいは透明でいて黒い帳が、部屋を覆っているようなアトモスフェア。親父のことを思い出す。読書空間とかいう社会学のことばもあった。シャルティエのいくつかの本も、何年前かに古本屋に売却した。
 いまは夜中の3時である。雨戸を締め切っているせいで、よけいに静けさに囲まれる。静けさは好きな時もあるが、嫌な時もある。10代より20代の半ばころまでは、部屋では必ず音楽をかけていた。
 福岡にいたころ、昼間、電気もつけず、横になって、ずっと音楽に浸っていたこと。すりガラスの向こうからは、青白い光が差し込んでいる。何かを考えていたわけではない。音の流れを泳いでいたというのが一番的確かもしれない。あのころのようにいまは音楽を聞かなくなった。いまは音楽を聴くときは、集中して聞くので、なにかをしながら音楽を耳にするという、つまりBGMみたいな聞き方はできない。聞いてもいないのに、音楽が部屋、空間を満たすことについては、不快を感じる。