オートビオグラフィア

いまが朝かどうかわからないまま、麻布へ向かう。行きしなにフランクフルト・ハウプトバーンホーフに始まる、ドイツ滞在のことを思い出す。フランクフルトは相当私の気に入った町だ。さすがクライストを産んだ町、なんていまのフランクフルトはもうそんな「文学」とは関係ないだろうが。フランクフルト大学前の本屋で、レクラムのクライストの手紙集と、ズーアカンプのベンヤミン・メディア論を購入した。雰囲気は本郷東大前になんとなく似てるとはいえ、本郷の方は、歴史、医学などのオカタイ本屋しかなかったような気がする。古本屋めぐりをしていたのも数年前どころか、大学生の時に限られるような気がする。高円寺の都丸書店で働きはじめてからは、古書業界内部に入ってしまったので、古本屋めぐりという趣味も、趣味としては成立しなくなった。
 世尊院幼稚園の排水が流れて出していた。神明宮との間の通路だ。あの通路は、「路地」というわけでもなく、裏道ではあるが、いつもきれいに掃除されている通行路である。なにもないのがいい。神社の林の緑陰が、伸びて来ており、夏には涼しい。その排水だが、排水といっても、私が小学校のころ、佐世保の町で見知っている排水とは全く違う、おだやかなものだ。その通路の清潔さと関連してか、その排水も、排水というより、公園の噴水のような清潔さを思わせる。小さな滝のような。とりたててなんということもないのだが、いまの時代だって、汚くくさい水を垂れ流す路地も多いわけで、こういう印象をつかむのは珍しい。
佐世保の水、70年代後半から80年代にかけての水は、いま考えてもおそろしく汚い。洗剤の泡がぶくぶくと沸き立ち、ヘドロのくさみが、あたり一面に漂っていた。そんな汚い川のなかを、私はよく遊んでいた。何年前かのノートにも書いたことだったが、小学生の私は、川をさかのぼることがなぜか好きだった。
私の姓が脇川だからではないだろう。言語に対しては私は鈍感だったからだ。そうだ。私は言葉が苦手だった。しゃべるのも下手だった。読むことはだけは好きだった。だから文字は好きだったのかもしれない。書道もなんだかんだで、けっこう続いたはずだ。ただ、ほんとうに話すことは嫌いだった。実はいまでも話すことは好きではない。というと、みんな笑うが、少なくとも私にとってはそうなのだ。議論も、学生のころはなんでも好きだったが、いまではごく限られた話題にしか興味がない、というと虚偽ではあるが、自分で乗らないかぎりは、議論ができない。なにか、話すことに対して、空しさを感じている。絶望といってもいい。マルクス主義者にして啓蒙主義者であったころは、相手が納得するまで何時間もかけて説明したりしていた。だがそれも学生だからできたことだった。つまり相手も、私のともすれば一方的な話を聞く耳を持っていたということだ。そうした「啓蒙活動」こそ、分子革命の実践だと思い、結構一生懸命やってたのだが、いまおもえばそれはひとの目には滑稽に映っていたのだった。無気力とシニシズムは、まあたしかにどうにもならないものだ。そうしていまや私も時々、シニシズムに陥ることもある…いいや、それはむしろ中学高校、あるいは小学生のころに強くあった。私はいつシニシズムを身に付けたのだろうか?
 そうした自己分析も、サルトルフローベール論風にやる必要がある。先日渋谷の古書店で、「家の馬鹿息子」を買った。2500円で、定価9800円なわけだから、まあ相当安い。他の本も買ったのだが、このサルトルの本、非常に面白い。こんなにサルトルが面白いと感じたのははじめてだ。水いらず、嘔吐、方法の問題、ボードレール弁証法的理性批判、いずれもはまれなかった。はじめてサルトルを読んだのは高校の時だったが、すでにカミュ椎名麟三にはまっていた私を、とくにひきつけるものはなかった。というかむしろ退屈とさえ思われた。カミュはやはりふつうにインパクトがあるものだ。読みやすく、また映像もクリアだ。映画のように読めた。
 そんな10年以来のサルトルはなんということもないという印象を、この本は一気に消去した。いま思い出したが、西永さんというたしかクンデラの翻訳をなさっている方の「サルトルの晩年」は、面白かった。
 シェリングにせよサルトルにせよ、たしかに、時間-人生は、スパイラルで進んでいくのかもしれない。

今日やるべきは、明日のplanBでのリハーサルに向けての構成だ。コットンフィールドまではまあいいが、それでもまだまだ掘り下げていくことはできる。解剖学講義をどうするか。マラン・マレの膀胱結石手術の図が二年前の時点ではもともとのモチーフだった。手術台の上。こうもり傘とミシンではなく。
 レインソングはまあすでにここ何ヶ月も変更なしだ。蒸気、家具。このあたりの細部を、曽我さんのいうフレーズリズムのための単位として浮遊させておけばいいのだろう。
 planBでの公演というのもまた公開リハーサルにすぎないわけだ、とは曽我さんにも念を押されたところ。たしかに金はすでに15万くらい掛かっている。客も来るわけがない。赤字はいやだ、とこう来ると、どうしてもこれが最後だと考え出してしまう。どうせならかっちり作ろうと、そう考えてしまう。まあだが、どっちかだ。構成か、生命への関与か。しかしこれは以前稽古のなかで発言したことだが、舞踊は、医学や分子生物学と同じく、リスクがある。リスクというのは、いずれもが生命に関与するからであり、そしてそれは時に自らの生命に自家中毒を起させてしまうこともある。私もその危険に晒されたこともある。とくに大野一雄笠井叡系統の舞踊だと、どうしても、彼岸にいってしまう。型などは、彼岸へ至るための動機にすぎない。型を捨てよ、あらゆるステレオタイプから逃げろ、自動機械にまでなれたのなら、それすらも捨てよ、なんていうのは私の解釈ではあるが、まあ自己保身になるような踊りは捨てろと、つねに限界、閾値、へりに立ち、生命、宇宙へと至る。逃走線とは闘争であり、宇宙線と接続されるべきだー!!と。
  そうした大野=笠井的な壮大な舞踊のコスモスあるいはカオスモーズ(ジョイスガタリ)に私も、彼らの舞踊に魅惑されたひとりの生徒として、到達しようともがいていたのが、1999年から2002年までの「カタモルフォーズ」時代だ。むろんいまでももがきながら、大野=笠井の磁場からも逃れようとして、またそこへ吸い込まれていく。ものすごい磁場である。コレオグラフィックな記号シーニュへと秩序化されないような、非人称的な力の流れが、彼らのダンスにはある。まあ、むちゃくちゃだ。そしてそのむちゃくちゃなアナーキズムを、やはり私は愛している。
 現代のダンスのモード、これは哲学でいう様相ではなく、ファッション流行の意味での、時代の意匠ということであるが、それは、緻密にブロックを組み立てていくような、建築モデルだと私には思われる。ニブロールのコレオグラフィーはたしかに圧倒的で、私も好きだ。方法論的には、ということだが。前提とされている社会世界像が、非常に退屈で、サムイものではあるので、そこだけは私はだめだ。それが現代の「必然性」のある実在感リアリティーということなのだろうが、私は、別に当世風であることが、積極的な価値規準であるとは思われない。すくなくともそれは私のリアリティーではない。いまのニッポンも、トーキョーも、私にはポジティブな記号ではない。ランボーの「断固として現代的であること」という提言、それはボードレール=マネのヴィジョンであるが、それとソニーのwhat's new?とはまったく違うだろう。
 それはどういうことだろうか。阿部良雄「群集のなかの芸術家」はよくまとめられた良書だが、それを踏まえれば、…長くなる。が、うろ覚えで行こう。当時の官展画家のモードは、茶や青、またはドラマティックな演出、ものものしさ、荘厳さ、威厳など、ある種世俗化された宗教画であった。歴史画というジャンルあるいはモードだ。クールベがそこに亀裂を入れていく。いまでいえばマンガ、当時の挿絵などから直接導かれ、そうしたものものしさをイロニーで包んでいく。「現実的アレゴリー」というオクシモロン撞着語法。たしかに大げさな真面目主義はいつの時代でもばかにされるものだ。深遠主義とは、笠井先生の言葉だったが、あれは否定すると。それがマネに至ると、それまでは使用されることのなかった(つまりなんというのだろか、主題的な色彩として使用されないといえばいいだろうか)黒をガンガン使用していく。…
クールベ、マネ、セザンヌのフランス絵画のモダニズム。それはキュビズム、シュルレアリズム、デュシャンへと行く…。さて。そうしたモデルニテと、現代の当世主義(?)との差異はどこにあるのか。
 …非歴史主義。忘却主義。それはニーチェ的でもあり、その点は私も現代のモードも好きなのだ。しかしなにか感性的にひっかかる。それが何なのか。嫉妬はある。しかしそれは助成金もらえていいなという程度の話だ。ピナ・バウシュやサビーエ・ル・ロワ、ノイヤータンツにはそうした引っかかりはない。もしかしたら、たんにダサさなのかもしれない。ニブロールのファッションは、断じてダサイ。それは私ひとりの感想ではない。90年代初頭で止まったセンスだ。なにかがイケテない。私にはたしかに人文教養主義はある。そしてそれが多くのひとを辟易させるようだ。私のモダニズムの起源はいろいろあるが、絵画、映画よりもより直接的な影響を与えたものが、イギリスの60−70年代のロックだ。高校のころ私はストーンズにはまりながらも、T・レックス、デヴィッド・ボウイザ・フーなど、グラム、モッズにはまっていた。コピーバンドを組み、ヴォーカルをやってたが、それよりも街を徘徊することの方が好きだった。よく飲んでいた。ひとりでバーにいって、ハーパーのロック。あのころが懐かしい。いまバーにいってもなんの興奮もない。…いまおもいだしてもおもしろい。親父の服や古着。イブサンローランのコートを高校生で着こなすやつは、どう考えても、当時私だけだったはずだ。高校の同級生が一緒に歩けないといっていた。なぜあそこまでイッチャタのか。それは当時80年代の日本の文化モードが、とてつもなくダサイものだと思っていたからだ。中学のときはみんなテクノカットの亜流みたいな髪型だった。ヤンキーと野球部的坊主を除いて。ビンを斜めに剃らないと、だめだったのだ。この10年でさすがにそうした自然発生的テクノカットは消えていったが、もうすこしモードが回転すればあれも甦るのだろう。いまの10代のモードは80年代初頭のリバイバルで、私が小学生のころのものだ。
 いま書いていることは、ニブロールと私との差異を確認するための準備分析だ。むろんこれがどう展開するかは私にもわからない。ただ、自伝的探求なしに、舞踊なり表現行為なりに「必然性」を埋め込むことはできないだろう。むろんこれもひとつの方法にすぎない。だが、やってて、確かな作業としと手ごたえはある。だが。