ニーチェ/クロソウスキー
ああ、ニーチェ先生!!いやいや、クロソウスキー先生というべきだ。昨日からピエール・クロソウスキーの「ニーチェと悪循環」を持ち歩き、電車のなかや喫茶店やそば屋やホームで読んでいる。すばらしい。本番3日前なのに、これだけ面白く興奮させられると、もうどうでもよくなってくる。こういうひとたちを知ることなしに、人前で踊るなんぞ恥じを知れ!と自戒もこめて、興奮鉄拳。
ニーチェ。マルクスの磁場からちょろちょろ外れてみるみる内にはまっていった。20才ころの時だ。最初になにを読んだろうか。たしか「反時代的考察」だ。あそこのショーペンハウアー論だ。それから「悲劇の誕生」とか初期の「哲学者の書」に入っている草稿群。そして異様な熱気で読んだことだけを覚えている「生成の無垢」。とくに「生成の無垢」は、興奮して、じっとしておられず、貧乏ゆすりでも止まらず、立ったり、走りはしなかったが、とにかく部屋のなかを行ったり来たりしながら、そして歩きながら読んだ。歩いている途中で、いきなり立ち止まり、そのままずっと読んだこともあった。ファナティックだな。でもほんとうに興奮させられた本は、やはりニーチェだった。ジョイスとかデュラスとかパウンドとかも興奮するけど、誰っていえば、ニーチェだ。ドイツ語やってたので、原書で、たしか勉強会も持ったはずだ。あのとき一緒にドイツ語やってた、名前を忘れてしまったけれど、なんとかさんは、どうしているだろうって、とても失礼なことか。故田井先生から、大将で、まだ読むのははやいといわれた。それは田井先生だから、なんかダンディーな、大不良の威厳を伴った語感だった。ふつうの教師なり年輩なりのやつがそれやると、非常なにいやみというか、あほまるだしみたいになるんだが、さすがは田井先生、そんな嫌味はひとかけらもなかった。遠い目をして、なにか懐かしいものでも見ているような目でいっていた。前田先生はその次の年かなにかでブルクハルトをやっていた。レジュメも書いたが、ブルクハルトもたいへん面白かった。思うに、もうああいうよき19世紀を背負った先生たちは今後いなくなるんだろう。18世紀を背負う先生はいないからな。これは、身体的継承/伝播というか、オーラルレベルでの話だ。口承文化というやつだ。
さて、クロソウスキー。いつだったか、大学を出てからだろう、あるいはすでに笠井さんのとこに行き始めてからか、「わが隣人サド」を読んだのは。あれも興奮した。鉛筆でしるしつけまくった。あのひとはハーマンやったり、なんかセンスいい。リルケの私生児とも言われているし、バルテュスの兄だ。すごい兄弟だ。その後、御無沙汰していた。まあハーマンならバーリンとか、まあ読むべきものはいつだってやまほどあるから。「ニーチェと悪循環」も学生の時から気にはなっていたが、なにせ高いし、あのころはニーチェ読めばいいよねとか、とかく未熟な若者はそういう割り切り方をするから。それで、先月、いや今月か、ちくま文庫になった。さすがにこれは。と思って、買った。別に中身を確かめることもなく買ったのだが、なんとなく気になって、電車のなかで読み始めた。なんだろう、ああいう文章の力というのは。ぐんぐん吸い込まれる。展開がはやいのか。いや、たぶん情動の力だ。ほんとに。
ドゥルーズがいかにこの本に影響を受けたかが読みすすめれば読み進めるほど、分かってくる。まあクロソウスキーも、ドゥルーズの「ニーチェと哲学」を見事な本として注に書き込んでいるわけだが、まあ朋友というか、同志感覚だろう。年も以外と離れてない。20才だ。20才と40才といえば、なんというか、ぎりぎり友人になれる開きだ。いまぼくは31で、51のひととも、友人関係にはなれる。そういう感じなんだろう。まあこういう話しはどうでもいいが、こういうどうでもいい話しこそ、ふつうの会話ではできないし、こうしたダイアリーみたいな独り言が許されるような場所でしか、いえない。
それで、メモを取っていこうと思うのだが、どうだろうか、もうノートはかさ張るし、ルーズリーフだと、まあいいのだが、まあ。ワープロはプリントアウトして終わりみたいな感じで、いまいち。それにpcが壊れることが怖い。だから、ここを使ってみる。
ニーチェ的陰謀
「すでに生きられた事実を考え抜き、それによってすべてをプレメディタシオンに逆転させる」
プレメディタシオンは、先取り的思慮?と訳されているが、これはストア派の先取観念のことではないだろうか。調べないといけないが、こういうアカデミックな作業、昔は好きだったのに、いまはなかなか億劫になってしまった。
「解釈の錯乱」という傾向はニーチェ自身恐れていた。
「カオス=間隙を、ニーチェは幼年時代から自伝によって埋め尽くし乗り越えようとしていたが、それが及ぼす抗しがたい魅力と戦うために全力を傾けていた」
ニーチェ「あらゆる瞬間にカオスは精神のうちで働いている。そこではさまざまな概念、イメージ、感情が、偶然のまま並置され、いりまじったままで投げ出されている。精神を驚かす隣接関係はこうして生じる」
:賽子、絵画、パラタクシス。
クロソウスキー「ひとつの思考は、下降することによってはじめて上昇し、後退することによってはじめて進歩する-想像を絶する螺旋」
:落下、スパイラル。
「行動を閉じ込める思考、思考を閉じ込める行動は、自動運動オートマティズムに従っている。この自動運動は安全を保証する」
まさに悪しきインプロヴィゼーションとはこういうことだ。
それに対し、「内部/外部の出来事から発した問い直しにすすんで身をさらそうとする思考は、再開始の能力を示している。思考は後退するか、超えて進むかのどちらかだ」無力さか再開始か、後退か、乗り越えか。
スピノザら哲学者たちは、「自分に固有な気分の動きを語ろうとするひそやかな気遣い」にだけ従っていた。
ニーチェ「哲学者とは、衝動がついに語り出すための一種の機会にすぎない」
カントらが為したことは、たんにかれらの至高の衝動を解釈したということだ。
「哲学者の思考と体験が、かれ彼女が生まれた社会に対する保証として働くのなら、その思考と体験にはいったいなんの価値があるというのだろうか」
社会による回収…
とくにこの章は重要だ。「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」
「すみやかな、痙攣的な死の想念」p49
直立姿勢/頭部:バタイユ
身体とは偶然の所産。諸衝動の出会いの場。衝動はひたすら非個人化されることを渇望している。
人格と身体pp67-68
イマージュp82
運動-言語p96
つづく。