ダンス、世界、死

今日は麻布dpで稽古。曽我さんとのセッション。2時に集まり、3時間、会話をしたあと、打ち合わせなしの完全即興。1時間20分。久々、無心に踊れた。思えば、こうして、集中して踊るのも、一年半振りくらいか。大袈裟か。いろいろクリアになってきていた。とはいえ、まだまだやれるはずだった。身体がなまっているのは分かっていたが、さすがにいまのスケジュールだと、戻らない。だが、単に踊った、そのことは、貴重な体験だった。曽我さんの申し出だった。やることがなくなるまで、即興で踊りつづけるということもやはりやらなくてはならない。振付という型の採集もむろん面白いが、やはり踊りの快楽を忘れてはならない。工場、産業革命、抑圧、…自分でも不思議なのは、よくああまで即興で、息切れもせず、次から次へと、舞踊素としての記号というか、型なり運動なり状態なり、手探りでやっていけるものだ。踊っている時、いろいろ考えることもむろんあるが、今日は、ほとんどなにも考えないまま、時間/空間を過ごすことができた。すっきりした。大分、時間/空間/身体の統御もできるようになったことが分かり、自信も取り戻せた。日常的な自我や意識とは異なる意識の状態というものがたしかにある。身体主観といわれたりもするものだろうか。とにかく、ここでは、自我は問題とならない。
 時間を見つけて、ラカンセミネールを眺めていたところだったが、ラカンのキー概念として寸断された身体というのがあるようだが、まあキーワードはともかく、フロイトラカン的な「自我」の探究を経た場合、実際、身体はどのように把握することができるのだろうか。これはあらためてゼロから始めなくてはならない作業である。
 舞踊の内側(?)にいるもの、舞踊のなかを生きることを主題にする(?)ダンサーにとって、自我の分析とは、すなわち身体の分析にほかならない。意識の座としての身体。意識は身体のしわのようなものと考えることもできるだろう。襞でいいのだが。そうして、身体は、世界/カオスのしわであるともみなすことができる。
 なんにせよ踊るわけだ。舞踊家は詩人のように、自分でやっていることが分からないが、先んじているのだろう。私が舞踊とはなにかと問うとき、それはダンサーとしてではなく、分析者として問ている。
 クロソウスキーの人格と身体との比較対照は、刺激的ではあるが、難解である。この程度だろうとタカをくくれば、むしろそれは理解しやすい。だが、深読みすれば、あるいは、クロソウスキーニーチェの思想の他の側面と考え合わせるとなると、それは膨大な読書/研究となる。
 わたしは、踊るとき、なにも考えていないといった。それは分析者としてのわたしが分析するような仕方ではない仕方での、意識の、あるいは思考の状態であるからだ。試行錯誤はとうぜんしつつ、ときには確信をもって、踊る場合もある。しかし、その確信とは?このフォルムがなんであるのか。それは果たして一般言語的な意味作用をともなっているのだろうか?そうではない。そのように意味を確定することはできない。それは陳腐なシンボル解釈にすぎない。これは、口だ、海だ、大気だとか、あのときの大理石だとか。
記憶世界はカオティックである。夢のように。要素、イマージュはランダムに、併置されていく。偶発生。
ローティは、詩人をさして、一般人よりも、偶発性に耐えるものとした。ダンサーが踊るとき、それはまさに偶発性/カオスに身を晒すことを謂う。裸型の世界へのエクスポゼ。
 わたしはまた明日、世界に直面する。それは恐怖である。なぜなら、ひとは、不確定なものに身を置くと、不安にもなり、混乱もするからだ。意味の世界とは、秩序の世界である。意味論的シークゥエンスによって、一般社会は構成されている。そうでないと、社会は機能しない。災害などは、意味論的シークゥエンスを解体し、揺さぶりをかける。パニック・ディスオーダーで自殺した先輩もいたが、それは意味の世界が崩壊したということによるものだ。
カオスへの抵抗。たしかに、抵抗は必要だ。カオスに身をゆだねることは、死に臨むことだ。だが、ラカンセミネールにおいていうように、フロイトの著作の内、最重要なテキスト「快感原則の彼岸」を丹念に読まなくてはならない。死の本能、死への衝動。タナトスをなぜひとは欲求するのか。
 死の練習。死を意志的に認識すること。仮死への欲望。あるいは執着。
 ひとは幾度も死に、また蘇る。それはより世界=カオスに耐えうる強度を得るためなのだろう。

それにしても、問題は、やはり言語=人間である。言語を裏返すこと、あるいは裏返されたまなざしから言語=人間を眺めること。そのひとつの手掛かりが、身体であり、舞踊である。

 …分析的理解とは異なるレベルとしての、詩的理解あるいは把握というものがあるとすれば、同様、舞踊的理解というレベルもある。音楽的理解、絵画的理解、。
 身体のコードと言語記号との差異の次元。クロソフスキー。明後日からまた読もう。