クロソウスキー「ニーチェと悪循環」


##「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」
 
「すみやかな、痙攣的な死の想念」p49

直立姿勢/頭部:バタイユ

意味は、直立姿勢から出発して、上/下/前/後といった基準に従って形成される。66
 バタイユ「足の親指」
 
 意識が隠蔽せざるをえない真正なる与件としての、身体の状態。

 「身体とは偶然の所産。諸衝動の出会いの場。衝動はひたすら非個人化されることを渇望している」p66
 
 パサージュのような。
 
衝動の偶然の結合は、それらが状況に合わせて作り上げる個人とともに、眠りから段階的に遠ざかる頭脳活動という、ひとを欺く原理を産み出す。
 意識の覚醒とは、眠りと不眠とのあいだの、鏡の戯れのような両者の反映でしかない。
 その鏡の裏箔は、「理性」の基底をなす。
 忘却が可能なのは、衝動の不透明さのおかげである。
 忘却なしに意識はない。
 しかし意識が、鏡の裏箔を掻き削るやいなや、意識はその透明さそのものの中において、衝動の波に溶けていく。
 
 裏返し。
 
 身体は意識によって捉えられている限りにおいて衝動から分離される。
 衝動:身体を横切り、身体を偶然に形成し、偶然的な仕方で身体を維持しつづける
 
 衝動について。身体を横切るもの。わたしが空間を、刃によって切り裂きたいと、いっていた…
 
 
 頭脳活動→直立姿勢→身体の現前を自動運動に還元する   /ルーティン、癖について。
 即自的身体→意識の道具→「人格」
 

頭脳活動が低下すると、そこには身体だけが現前する。しかしそれはもはや誰に属するものでもなく、
たしかに同じひとりの人物を再構成できるような反射/反応を保持しつつも、そこに「人格」はない。
…人格は眠り、夢み、笑い、ふるえるが、それを表すのは身体である。
 人格にできるのは、身体感覚の解釈にすぎない動機の想起によって、自分が笑ったり、ふるえたり、苦しんだり、快を感じるということを表象することだけだ。
 
…人格は、笑うことあるいは笑いの反射に身をゆだねることを決定することができる。(苦痛、疲労の反射の場合も同様)
 しかしこうした決定は、刺激された状態から生まれるにすぎない。決定は刺激に先行しない。それは刺激の後に来る。強い苦痛や喜び、官能的快楽のなかで人格は一瞬消滅する。そのとき残っている意識は、身体的徴候というきわめて狭い範囲に限定されるので、構造それ自体が逆転する。
 直立姿勢に起源をおくものの忘却。

あらゆる人間は横たわることができる。だがそれは、いつでもまた立ち上がること、姿勢を変えることができるという確信を持っているからだ。
 つまり人間はいつでも自分の身体のなかにいると信じている。
 しかしこの固有の身体は、互いに矛盾しあい、一時的に和解しあった諸衝動の偶然の出会いにすぎない。
 「わたしの」苦しみとは、諸機能のあいだの戦いの、身体組織に隷属させられ相互に敵対する諸衝動(わたしに属する衝動とわたしが把握できない衝動)のあいだの戦いの、解釈でしかない。
 生理的基体
 身体の同一性
 …身体は自我をつくり出し、そうして自らの同一性をつくり出す。だが身体は幾度も死に、幾度も蘇る。
 身体の年齢とは、身体を形作り、変形し、次にそれを見捨てようとする欲動の運動のことである。
 生理的解体への不安によって、固有の統一性に対するレトロスペクティヴなヴィジョンがもたらされる。
 かく身体の所産としての自我は、身体を所有する。また、他の身体をつくり出すことはできないのだから、その自我もまた不可逆的歴史を持つことになる。
 人間の生の不可逆的な流れがつくり出すひとつの意味方向。
 運命、不可逆的な流れ、それへの愛。
 一度限り決定的に定められた不可逆性の破壊=永劫回帰
 →運命の新しいヴァージョン=悪循環。はじまりも終わりもひとつに混じりあいそれゆえ目標も方向も廃棄されてしまうような、ヴァージョン。
 以降、身体は自我の所有物ではなく、衝動の遭遇する場所となり、偶然的なものとなる。
 身体は不可逆的でも可逆的でもない。なぜなら身体は衝動の歴史以外の歴史を持たないからだ。
 衝動の波、その円形の運動。
 
 corporanteな思考

 
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 自己も、人間も、イメージにすぎない…
ニーチェ「われわれが持つ感情の、感情としての限りでの最も強いもの、それは、なにか外面的なもの、外部、イメージに属するものです。類似、それがその正体です。」
運動-言語p96
つづく。