days 空が落ちてくる

キノウと、打ち込んだつもりが、漢字変換すると、苦悩、と出た。昨日はたしかに苦悩していた。
朝から、家庭の事情というやつで、問題の渦に巻き込まれる。
黒い雨の帳、
空が落ちてくる、

そういう日であった。
昨日、なにをしていたか、いま判然としない。

今日はひさびさに休みだった。昼すぎまで眠り、片付けを始める。弟の部屋であるマンガの帯に藤子不二夫Aの賞賛の辞があり、なかを見ると、なるほど伝統的な少年冒険漫画だ。いまでもこのタイプのものは書きつがれているのか。その漫画を読もうとしたが、ふっと棚を見ると、藤子不二夫Aの「愛、知りそめし頃…」があった。「まんが道」は以前読んでいた。これはその続編だ。中断しながら、通読する。
 あのころの東京というやつだ。たしかに非常に魅力的だ。ずっと落ち着いている。高度成長期以前の時間。みなが集団ヒステリーに入る前の時代だ。私のこども時代は1970年代で、高度成長期の中途であるといえ、西九州という田舎であったこともあり、まだそれ以前の時間が流れていた。
 冬の木枯らし、雨のなかの下宿の部屋、落ち着いた時間。いまとなって、ようやくあのような時間感覚を持てるようにはなったが、いままでは急ぐか、あるいはゆっくりしようとしても急いでゆっくりしていた。
だが、冷静に、作者のノスタルジアを排除すると、すでに当時の社会は高度経済成長期を準備していたことが分かる。というか、求めていたのだ。あのばかげた「成長」を。
 構成をやる必要があるのに、ついはまり、ついで、コンビニで、ジャンプを買う。たぶん、20年振りだ。小学校のとき以来、ジャンプを買ったことはなかった。しかし、そんな予想外の事態はなかった。強いていえば、あの紙質が変わっていなかったことか。なんというのか、ザラ紙とでもいうのか、リサイクルの紙なのだろうか。変わらず、ジャンプは合理的だ。¥230。
 本棚の整理。一月に一度はやる。これが大変だが、好きだ。分類の作業。いま読むべき本、読みたい本、資料、捨てるかひとにあげるべき本の、自分の関心の程度に応じた分類。レイアウト、つまり見た目、というか、アクセス性からの整理、その整理の過程で、もはや詩などいらないとか、しかしディキンソンだけはとか、もう哲学もいいかとか、やはりエイヤーはさっと読むべきだとか、一冊一冊、ある程度アットランダムに、「迷う」。この整理という作業、ほかの本好きがどうやってるか知らないが、ぼくは楽しい。まあ一日やれば、こういう整理よりも、一冊の本を読んだがいいとはなるのだが。本を置くスペース獲得能わざるなので、もうこの作業はいくども繰り返されている。本の整理については、ジョルジュ・ペレックが、書いていた。それにしてもペレックはいまだ微妙なひとだ。カルヴィーノがいうようにたしかに「人生 使用法」はすごいとは思う。だが。あたりまえだが、ペレックの前提には、ジョイスフローベールやクノーがあり、その前提となっているテクストを読むことなしに、把握はできない。まあ、単にまだ理解できないのだが。