自然史:クロソウスキーの運動/身体論(承前)

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「あらゆる運動は、身振りとして、そのなかで様々な衝動の力が相互に理解しあう一種の身振りとして考えるべきである」p96

 「無機的な世界には誤解がなく、コミュニケーションは完璧である。有機的な世界で錯誤がはじまる」

 誤謬の歴史について、むかし考えていたころを思い出す。あのときもニーチェのなにかを読んでいた。

 「矛盾は真/偽のあいだにではなく、記号の簡略化と、記号それ自体とのあいだにある。

 「運動を表象する形式の創造、記号の全種類のための記号の発明」

 「あらゆる運動は、ある内部の事件をあらわす記号である」

 「内部の運動のそれぞれは、形式の変更によってあらわされる」

 「思考はまだ内部の事件そのものではなくて、それもまた、諸情動の力の代償に対応するひとつの記号論にすぎない」…

記号の問題に至ったのは、ダンスとはなにかと考えていたときだ。いまも考えている。ドゥルーズのベルクソニズムは、ダンスの教科書としても読めた。理解しにくい箇所があっても、ダンスを念頭におくと、すらすらとそのときは読めた。言語の操作がなによりも運動であることを忘れていたころ。
 あれはあれで別の認識世界だろう。穴だらけの世界。
 運動はダンスにとって本質的な要素ではある。だが、ダンスは「競技」ではない。スポーツ人類学の本を整理の途中で眺めたが、近代スポーツの悪癖としてそのあたりのことが論じられていた。
 しかしまあどうかみたいなことはある。竹田先生ではないが、勝敗固執の問題はやはりあるし、闘争論的契機なしに、表現も社会も人生も把握することはできない。
 
 単なる運動。純粋舞踊のひとつの形態が、純粋な運動であるのは否めない。むろん「純粋」とはいかなる意味においてかということはある。
 ある記憶を辿り、痕跡、しるされたものを収集する。
 そうだ、昨日スタジオで話していたこてゃそのことだ。
ある原風景を探っていくということ、自分の原型を探っていくこと。
 からだのひだにしるされた、地層のなかの押し込められた化石のような、しるし、記号。

 身体というメディアは、20世紀の派手なメディアテクノロジーの隆盛のなかで、ずいぶん貶められた。
アナログは古く、だめで、デジタルは新しいがゆえにただしい。
むろんベイトソンなりまとまなひとはそんな馬鹿で陳腐な対立軸は使わないが、ずいぶんその手のイデオロギーも聞かされた。複製技術じゃないだめとか。
 一方で、身体のアウラ主義もありで、双方が対立している。状況は、いつだって愚かしいが、最近はどうだろう。もう世間も「IT革命」とは言わなくなったね。数年前のITバブル、ITイデオロギーも、ずいぶん古臭く思われる。未来学的発想の断末魔のようだったな。いま考えれば。
 いまはどうだろう、ずいぶん黙示録的語調が、流行っているのか。

 まあ、身体は、ダンスは、メディアとしてはおそろしく古典的ではあるが、やはり一番面白いものではある。むろんそのように動かすのは、思考/言語/意識の主体である。
 身体に主体があるか?身体は感覚する。外部のデータに対して反応システムを作り、適応しようとする。
ここで面白いのが、学習過程であり、つまりは記憶という機能(?)だ。
 身体はほぼすべての感覚を持っている。あたりまえだ。感覚は身体のものだ。脳もまた身体の一器官。
身体の拡張原理というのがある。人類の道具、技術の歴史は、それの発展過程の歴史である。
 ルロワ・グーランの本も田口先輩に貸したままだな。石器の使用は手の機能拡張。火はしかし、どうなんだろう。火の使用なんて、よくやったよな。気の遠くなる時間があった。時間もまた言語/観念であり、道具だ。それを発見する以前にはなかった。身体は意識以前に存在していた。…存在以前には…
 言語は脳の機能拡張であり、そうすると、やはり言語の起源には身体がある。
むろんおおくの問題は、人間自身に関わることだ。その領域においては、言語論で十分対応できるはずだ。
だが、身体は、言語の座として、言語以前の、歴史以前の、自然史的過程に属している。
 だから、身体の問題は、おもしろい。
 結局、言語といっても、それは身体を通過しないことには、機能しない。
むーん。