ノート化について

学生のころはレジュメを書くのが好きだった。教育社会学をやってたころ、レジュメ作成は、小学生教育課程にも導入されるべきだと思ったことがあった。読むこと自体、獲得はむずかしいわけだから、読むことをただ読むことに終わらせることなく、書留め、まとめていく作業とからめながら、小学校、中学校、高校においてやっていけば、少しはこの国もまともになるように思われる。文部省の教育方針については文句が終わらないが。すでに議論はされているようだが、「国語」ではなく「日本語」というべきだとか。だがぼくはもっと、「言語」というカテゴリーでことばの教育は行われるべきだと思う。日本語も、英語も、他の言語も、分離して教えられるべきではない。
 
 それにしても、ノートを取りながら読んでいくことはたしかに大変ではある。時間がかかるというより、ノートがどんどん増え、その書類の山の整理が、また一苦労だからだ。
 だが重要なテキストについては、レジュメをしっかり取っていかないと、それこそ効率が悪い。むろん一方で、ノート化することにおのずから抵抗する種のテキストもある。たとえば、バタイユの文学批評などはそうだ。なんというのか、読み進めていくうえで、とくにひっかかりはない。だが読後、ある明晰な体験の感覚だけが残り、いわゆる内容、つまり他人に説明できるような要旨概略がつかまらないのだ。このようなことはあまりない。デリダみたいに難解なものでも、なにかしらメッセージの断片みたいなものは残る。バタイユの理論的な著作にしろ、初期の人類学的な論文でも、「内容」の断片はなにかしら残る。だが彼の文学批評は実に面白く読める一方で、なにか、「内容」ということに還元されない、そのように「読まれる」ことを頭から拒否しているようにも思われる。実際にノートを取ってみれば、そのあたりのことは解明されるのかもしれない。いずれやろう。