モノロギオン

今日は、来年のピエール・ダルドさんとのコラボレーション公演のための助成金申請のための書類作成。どうせおりないんだろうが、こういうこともやっていかなくては、実家に帰るはめになってしまう。まあ佐世保に帰って、「南方舞踏派」なり「西方舞踏派」でもやるか。ちなみにこの名称、実は3年前にすでに思いついていた。まあさすがに時代も時代だし、たしかにMさんに批判されたように、土方さんに寄り添いすぎちゃいるが。でも土方さんは、ほんと、会いたかったひと、NO.1だな。いまはなき暗黒舞踏派…ってことはないが。上杉さんにせよ泯さんにせよ室伏さんにせよ、みんないいのをしっかりやってくれている。
 それにしても、泯さんは、あいかわらず忙しいようだが、現在の日本の舞台を見ているのだろうか。白州フェス以外見てないんじゃないか?それで、ああいう刺激的な舞台がつくれるのか。井の頭公演の森の微笑、そしてなにより脱臼童体。サブジェクトシリーズの脱臼振子もすさまじかった。線上にても。なんといえばいいのか、作品の方向性?舞踊の方向性といえばいいのか?どう位置付ければいいのだろうか。
 大野一雄先生がいる。笠井叡先生がいる。この二人は舞踊機械だ。純粋な。純粋闘争としての舞踊。一方で田中泯さんがいる。ここの地図は書きにくい。間には、もはや日本の文脈だけではどうにもならないひとびとが介入している。みな、アルトーに直接的な影響を受けている。
 モノローグ。彼らの舞踊、あるいは舞踊はモノローグか。根源的には、モノローグでしかないだろう。舞踊だけでなく、諸芸術は。
 なんのための舞踊かという問いは、舞踊の社会的機能を問うものだ。目的性というか。うーむ。ブレヒトの教育演劇というヴィジョンはたしかに非常に難解だし、魅力的である。だがそう銘打たない作品もまた教育的である場合もある。結局、意図しているか意図していないかなど、問題ではないのかもしれない。
 思考するとき、語の系列ができ、そこで引かれる線が、いわばボーダーとなり、そこに立つことになる。そこでなにかが見える。あるいは消える。別の線が遠くへ見えてくる。風景の展開といってもいいし、時間に着目すれば、その時間の地層がゆっくりと帳のように過ぎ去って行く。舞踊もそうなのだ。
 舞踊を考える際、もっとも有効なのが、音楽との比較対照だ。…眠い。つづく。