リズム、主体

野沢さんに、笛田さんのいう制度的無意識、あるいは、ステレオタイプとしての、リズム、リズム感覚を見た。指摘すると、沈没の事態。いやはや。それにしても、リズムについてはいままであまりやってはこなかった。それは幸か不幸か、ぼくがダンスのオーソドクスコードを刷り込まれる前に、ポストモダン(?)ダンスに出会ってしまったからだった。その後、wsその他で、葛藤はありながらも、リズムについては、脱臼化は問題なかった。それは自明のことだった。しかしそれには気質みたいなものもあるだろうし、あるいはぼくが音楽、というか、ジャズなり現代音楽にはまっていたからか。いずれにせよ、リズムの政治学の重要性を再認識した。というか思い知らされた。
 リズムは音楽においてと同様、ダンスにおいても最重要な要素である。
 デュッフェルさんに以前ドイツ文化会館でダンスと演劇との関係について質問したときにも、リズムについての話しがあった。メモはどこかにあるだろうが、いまはない。
 そういえばヲルフガング・リームについて、音楽学者のなんとかさんの講演もあった。あれもメモをとっておかなくてはならない。
 さて、教育の現場での、リズム/時間感覚のディシプリンは、遅刻論の基礎論でもある。
 制度はリズムに宿る…
 
 リズムについて、どう対処すればいいか。
 
 ある意味では、過剰にコントロールし直すことで、ディシプリンとしてのリズムは、とりあえずは消失するか。
 というか、リズムに、たんに悪しき意味での、ということはもうひとつの制度としての「脱臼」を施すだけでは不十分である。
 そんなことではなんの抵抗にもならない。わからないが。
 
 ぼくがジャズを深く愛しつつも、そこから離れたときに直観されていたこともそのようなことだった。

 厳密な方法論なしに、リズムを解体できるわけがない。
 
 いまぼくが非常に危うい線上にいることは分かっている。1960ー70年代に行われた「文化革命」がまた、ディシプリン=規律訓練として、あるいはお稽古事として回収されはじめて久しいいま、その革命が達成したものを、もういちど把握したいと思い、遡及しているわけだ。レトロスペクティブは、さりとてどこまでその射程を伸ばすか。人類学がすきなせいで、すぐぼくは人類史的相対主義におちいりやすい。
 スパンをもっと限定しよう。だから19世紀というのはちょうどいい。

 制度としてのリズムについては、完全に把握しなければならない。
 まああせらず、やるか。

 うーむ、それにしても、あたりを見渡すと、文化革命の痕跡すらとどめないものばかりであるのもまた事実。テレビ資本主義のリズムの深さ。あれはおそろしく時間を引き延ばす。

 かつてある一時期、一ヵ月くらいか、テレビをずっと見ていたことがあった。テレビのタイムスケジュールはほぼ全部分かったが、しかしこちらの主体性は完全に画面に吸収されていた。自覚的にそれをやったわけではなかったせいもあるが、あのまま吸収されているひとびともいることを考えると、やっぱりやばい、とはいいたくなる。だがやばいのはそれだけではない。もっと構造連関を見ないとだめだな。

 労働時間、時間と資本主義。
 リズムと主体ということでも、考えなくてはならない。
 主体の問題から、考え直す方がいいかもしれない。

 別の視点から接近しないと、ほんとうに、リズム、時間の次元は、克服できないだろう。