19世紀:クルティウス

電車のなかで(本を読む時間はいまは電車の中くらいしかつくれない)、クルティウスのヨーロッパ文学論。カルデロンホフマンスタール。というか、それは来年の春にパゾリーニカルデロンをからめたいからだが、しかしこれはヨーロッパ文学とラテン中世を読まないとだめだ。
 あとは、これも来年だが、夏にピエール・ダルドさんとバルザックを素材にとってコラボレーションやるはめになったから、バルザック論も。メモを取りたいが、いまは無理だ。
 しかし、クルティウス。フローベールは分からんかったが、バルザックは分かると、まあ彼が10代の時の話しだが、それはないんじゃないかと思った。まあ時代か。第2次世界大戦後の文学実験を踏まえれば、フロベールはとりあえず超基礎、哲学でいうとニーチエみたいなもんだ。その絶望の深さ。
フローベールなしにジョイスはいなかっただろうし、ということはベケットだって、ああではなかったはずだ。サルトルの「家の馬鹿息子」もまだ読みかけだった。
 それにしてもバルザックにはじつは何の思い入れもない。いやすごいのはわかる。しかしあの疑似社会学的文体は、ちょっと。以前読もうとした時も、それで挫折した。いや、非常に読みたくはあるのだが。だから、これを機会に読むわけだ。昨日も、蔵書のなかから、バルザック関連の本を引き出して眺めていた。
 カルヴィーノは視角性を論じたさいに、知られざる傑作について触れていた。ジャック・リヴェット美しき諍い女は好きな映画だが、あれの原作だ。あの映画の舞台はたしか南仏だが、夏のバルコニーが非常に印象的だ。もう10年前に見たのに、いまだに焼き付いている。南仏に以前は留学計画を立てたが、それはあの光りが動機のひとつだ。映像を通してではあるが、あの地中海の光りは、ぼくの故郷の光りを思わせる。夏の西海は大好きだ。生月島の緑。知らないが、ナポリを思ったものだ。断崖。マンゾーニいいなずけの冒頭の描写。
 とまれ、バルザックに取り組むことで、よりボードレールの文脈が見えることだろう。19世紀。中西Bのような20世紀主義者に対して、ぼくは19世紀から攻める。というか、モデルニテは19世紀に発生したよね。とりあえず。