外、内部、自我

「この懐かしき蒸気」を見て、複数のひとから、外から見ていることが分かる、といわれた。そりゃそうだ、外から見てるから、とはいうものの、そういうことがどうして分かるのだろうか。
 舞踊主体としては、観客の視線に「なる」ことはできない。こちらは動いているし、観客は座っている。
そもそも動くとき、しばしば視線は混乱するものだ。多くのダンサーというか、ダンスのwsでもそうしたまなざしについての訓練は受ける。
 しかし。その視線とはなんなのか。結局はそれは、意識、センターともいわれるものだったりする。
 以前は、内から発せられる、衝動に乗って、その衝動のおもむくままに、動いていたものだ。最近はそういうことをやらない、というか、やれなくなった。それはもしかすると、致命的な誤りであるのかもしれない。外からの視線は、演出/振付けの作業に昨年よりずっとかかってきたせいなのかもしれない。
 最近も、デュラスに向けての稽古は連日のようにあるが、ぼくが踊ることはできない。これはやばい、とは分かっていても、もはや取りかえしのつかない事態ではある。
 それにしても、「内側」はどこにあるのか。たとえば皮膚の裏側を意識するとき、それはやはり「外」から発せられている。このへんのことは、裏返しー裏返しで、結局、「内部」なんてなく、ぜんぶ外だ、とはいうものの、実際、どうなのかは分からない。とりあえず、すべてが外であるということについての感覚体験はたしかにある。しかし、また、別の感覚もある。それはたんに、フレーム=身体図式のずれによるものだろうか?
 このあたりのからみで、ラカンなんかを開いたりしたわけだ。まだ第一講しか読んでいないが、たしかにラカン先生がまっとうにおっしゃるごとく、自我の問題はなお存続している。