ノスタルジア

イマージュオペラ」でgoogle検索したら、当たり前だろうが、この日記があらわになっていた。いまだサーチエンジンのシステムはよくわかってないのだが、とにかくこの日記は公共的に開かれていることを知る。ということで、この日記の名称も変える。ベルナノス/ブレッソンの偉大な仕事にあてこむというより、ぼくが大学を出たあと、佐世保の家で、ひとり夢想に耽っていたときの体験がより直接的な背景だ。
あの孤独をどう説明すればいいか。まあ説明する必要もないが、現在、東京に仮説的に居住、寄寓というのか、している空間環境とは異なる空間環境があり、それがまた実はぼくを深く規定している。
 父はぼくとは違うパターンで、田舎に移り住んだ。それについて書くには、大変な作業が必要である。いずれまとまれば、なんらかのかたちにするだろう。
 ぼくは故郷佐世保の夏が好きである。そのあまりのノスタルジアに一時は辟易しもしたが、やはりあれは肯定されるべきだ。誰もいない。小学校の時しか佐世保にはいなかったし、またその後、さまざまな出来事が歴史として通過していったが、いまも家は、昔とそう変わらないまま、ある。
 町は変わった。過疎化がすすみ、もうこどもたちもいない。あそこまで過疎化がすすむとは予想もしていなかった。それでも、あのころ、近所の大人だったひとたちは見かけることもある。駄菓子やのおばちゃん、薬局のおばちゃん、魚屋のおっちゃん、…。
 ぼくが育った1970年代後半から80年代にかけての佐世保の町は、米軍基地のおかげでそれなりに栄えていた。父にかつて聞いたところによると、朝鮮戦争のころは、コーラの消費量が、九州で一番はおろか、東京、大阪に次ぐほどであったらしい。去年か、おととしか、家族で居酒屋にいったら、そこは前は米兵用のバーで、その時のマスターは、がっぽり儲けたあと、店をたたみ、悠悠自適の生活を送っているという。
 90年代以降、福岡に一極集中化がすすんだせいで、ぼくもふくめて、おおくのものが福岡なりほかの都市なりに出て行った。たしかに青雲学園を中退したあと、福岡の高校に編入学し通学していたころ、そのあまりの住みよさに快楽を感じていた。CDも、服も、本も、映画も、クラブも、歴史も、なにもかもがあった。東京に出て以降は、九州に帰るたびに、福岡がバブリーに発展していき、いまとなっては、東京の郊外都市となんら変わらない風情だ。まあ、住めばまた印象も変わるかもしれない。
 福岡が発展していく一方で、佐世保まで来れば、帰るたびに、徐々にではあるが、活気がなくなっていく印象があった。そしてそれは事実だった。成長期はとうに終わり、いまは老後ともいうべき雰囲気である。
 そんなさびれた町でも、やはり夏になると、あいかわらず日差しは強く、あの独特の、乾燥はしていないが、かといって、湿気がむやみに多いわけでもなく、不思議と涼しいあの夏の大気を楽しむことができる。
 実家がつぶれかかったときは、家の歴史と、町の歴史とが幾重にもかさなり、カタストロフィー感覚のなかで、クアジーモドとか、ドノソとかを読みながら、なにかを凝視していた。あるいは待っていた。
 佐世保に帰ると、どうしてもその風土のせいで、イタリアとかラテンアメリカのものしか読めなくなる。
父の蔵書はそれらに限定されるわけではないのだが、やはりドイツとかロシアのものは関東でしか読めない。これは大分前からそうだし、いまでもそうだ。つまりぼくはその読書環境としての風土に強く左右される。あるいは、そのあまりに強烈なノスタルジアのせいなのかもしれない。
 話し相手が5人でもいれば、いますぐにでも佐世保に帰りたいとは思うが、もう友人はひとりもいない。
それゆえ寂しいというわけではないが、いや寂しいのだが、他の事情も重なり、いまだ帰郷してはいない。
 東京に上京した来たものとして、よく東京がそんなに好きなんだとか揶揄もされたが、実はそんなに執着しているわけではない。まあ住みやすいのは事実あるし、なによりいまは舞台活動を本格的に起動させてしまったので、帰ろうにも帰れない。
 むろん、帰ったところで、というのもある。結局、いまはすべてを保留にして、現在を過ごしている。

 こんな風に自伝的に、回顧的に、だらだらとおもいつくまま書いていると、綾原から、ほんとあんた自分が好きやねえといわれたが、まあ好きだからそれをやるというわけではないのだがね。
 ただ、たしかに自伝的探求には、ある独特のナルシシズムがあり、それはよっぽど注意して、批判的分析を介在させることを持続させないと、ほんとうにどうしようもない、生まれてよかったの美的追認に終わってしまう。まあそれでもいいのかもしれないが、とりあえずぼくはそういうことを希望するわけではない。
 
 それで、田舎司祭だ。田舎で、ひとり夏の午後に、窓から差し込む光が差し込まないほどの部屋の奥で、机にむかい、遠くにかすか見える海の地平線を眺めながら、じっと時間を過ごす。こうしたことは東京ではできない。海の見える部屋を借りればいいのかもしれないが、それとは違うのだ。
 あの家、父の記憶と失われた過去の町の記憶とが混じりあい、ぼくが幼年期を過ごしたあの家で、もはや失われた時の痕跡がそこらにころがっているなか、瞑想というのでもない、ただじっと時を過ごすこと。なにを考えるわけでもない。なにか思考を惹起することが湧き上がっても、ゆらゆらと消えていき、あるいは記憶の断片が想起されても、すっと一片の光の差込みのように、あらわれては消えていく、あの状態。
 何日もそれが続くわけではない。ある日、ふっと、あの状態は生起する。ある独特の感情のフォーマットが作られもするのだろうか。
 父は澁澤龍彦に導かれ、書物の世界へと深く沈潜していった。ヴァレリー全集とかセリーヌ全集とか、とにかく膨大な書籍を処理するのに、およそ7年かかった。10年かかったといってもいい。とにかく、すべてを保存することはできなかった。捨てられるものは捨て、売れるものは売った。何千冊だ。ぼくはといえば、また東京に戻れば、今度は自分の蔵書を処理せざるをえず、同様、何千冊も売った。
 あほ親子か。いやだな。でもまあ、いまは本へのフェティッシュも大分抑えることができるようにはなっている。以前はほんとうに痛恨の思いだった。本の奴隷だったか。
 ダンスという書物の外部に出たことはその意味では幸いだった。ほんとうにあのころは悪循環のきわみだったから。とはいえ、その後、ダンスを探求していくうちに、ダンスは裏返された書物でもあり、なんにせよ、言語の問題と分離したところにダンスも身体もないということに気付くわけではあるが。