暗示法闘争

計画表

・政治/コミットメント
  個人とはなにか。個人主義/内在主義
・抵抗
・自由論/ダンスの理念的目的のひとつは、自由である。
  自由と死
・市民主体/市民
・共同体
・美的感情/感性論/入れ子状/階型理論
・上演表象/舞台と社会
・音楽、絵画
・実践論
・身体/自我:フロイト
・悲劇、喜劇、ホロコーストコメディ
ブレヒトミュラー/バウシュ/ローザスのメディアマテリアル
・狂気の歴史/ニーチェアルトー
・神学
・メイエルホリド
・モデルニテ/近代主義バルザックボードレールフローベール:19世紀社会史
・メディア/20世紀/ベンヤミンキットラー、映画

・日本/舞踊史、芸能史。
・日本のモダニズム幸田露伴牧野信一石川淳、梅崎春夫、金石範
・日本語/言語

ひざびさに目録/計画表をざっとおもいつくまま並べた。これは蔵書を整理する上でも役に立つ。
むろんこれはおおざっぱなものだし、視点しだいで、問題のシークゥエンスは変更する。
しかし、こんなものか。一冊一冊を、モノグラフ的に把握しようとなると、自分の蔵書に圧倒され負けてしまうが、問題意識から見ると、意外とこざっぱりとしている。というか、学生の時と基本的な問題意識が変わっていない。だいぶ、遠くまで来た気がしていたのだが。いや、でも変わっているか。舞台の問題なんていうのは、人類学の儀礼論、国家論の範疇でしか興味がなかった。バランディエ、ターナーギアツ

 いまブランショマラルメ論を中断しつつも読みついでいるが、たとえばマラルメ詩学/詩法は、舞台論としても読める。実際、バレエについては文を残している。
 書き言葉の構成もそのように見ることができる。そういえば去年海上さんと飲み会の席上、書物にも上演性があるとすれば、舞台芸術と文学を切り分ける根拠はどこにあるのかみたいな話しになったことがあった。再現表象、現前の問題。上演は言説とどのように異なるのか。ここは、諸芸術論全体から考えなおす必要がある。そうだ、だから、ぼくは自分の活動を、イマージュオペラとなづけたのだ。
 詩も、ダンスも、音楽も、映画も、絵画も、それぞれ集中する作業、媒体がことなるとはいえ、みなイマージュ/しるし/記号に関わっいる。
 さっきドゥルーズの「狂人の二つの体制」に入っている、プルーストコロックの記録を眺めていたが、ドゥルーズの蜘蛛スパイダー論には驚かされる。引用「」

 イマージュオペラでまずいのは、オペラという語の一般的な了解だ。「オペラ」ですか!それはそれは!
だから、オペラというのは、語源的には、作品・労働を意味するラテン語opusの複数形であって、「作品」とかそういう中立的な意味合いなんです。といっても、世の共通了解にはかなわない。
 ブルジョワくさいよなーと思いつつ、まあたしかにオペラは好きだし、舞台観劇の悦楽のうち、好きなダンサーを見に行くのとほぼ同程度に楽しめるのが、オペラだ。といっても、ぼくは新国立劇場のz席でしか見ないが。z席も、いい。朝並んで、ひとしきり浮浪者感覚に浸ったあと、午後にはオペラが見れる。4時間ほど、オペラの空気にさらされる時間は実にいいのだ。トルストイはオペラを金の無駄遣いといって怒っていたが、まああそこまでやられると、文句をいう気も失せる。むろん下らないオペラもやまほどあるし、たしかトゥーランドットだったか、あれはひどかった。さすがにうんざりした。
 キース・ウォーナーのワーグナー「神々の黄昏」はよかった。でも感動したといえば、コルンゴルドだったかの「死の都」だった。下町のどこかのホール。大した舞台装置もなかったが、井上道義さんがあいかわらずエネルギッシュで、あれは感動した。期待していなかったせいもあるが、井上さんはほんとうにすごい。2年前か、たしかバルトークだったと思う。サントリーホールだった。クラシックのコンサートで興奮したのははじめてだった。むかしストーンズの初来日の時にはじめてコンサートを見たが、まあひどかったし、その後、JBというので、見に行ったが、やはりまあ大して。アポロシアターで見ないとだめだよなーとか思ったものだ。まあクイーンだけは見たかったが。
 ということで、たしかにオペラは好きだし、映画や絵画が好きだというのも、「ブルジョワ」だーとかなるだろう?まーブルジョワなんて言葉はもちろん冗談ではあるが、というか馬鹿馬鹿しい。
もはやプロレタリアートなり第三世界に心情左翼的にコミットしてもなんの効果も果たせないだろう。
結局、往時のそうしたコミットメントは、そこへコミットした自身の体験へのノスタルジアへ回収される。
それはそれで、泣けはするが…。父はパヴェーゼが好きだった。美しい夏を読んで、たしかに父がいかにも好きそうだなと思ったものだ。父の父、祖父が亡くなったようだ。一度も会ったことがなかった。
 常磐交通のおぼっちゃまだった父。父の孤独は、手塚治虫先生に導かれ…ついでネオリアリズモによって…ぼくもまったくその血をひいている。父の師のひとりであった井上光晴さんのことをぼくはおじいさんだと感じている。このへんもひもといていこう。
 …とはいえ、経済格差も階級化もますますひどくなっている気はする。階級闘争の原義に遡るならばたしかにいまなお、それは求められる運動だ。だからあれだよ、経済所得によってではなく、社会的構造への批判的視点を持っているかどうかなのだ。いや、違う。舞台創作がなぜ抵抗の手段となりえるか。

 直示的な闘争ではなく、暗示的闘争だ。感覚器官に訴えることによる闘争だー。
 暗示法…暗示法闘争。
 ここ、もっとじっくり考えよう。

 イマージュオペラという名称についてだった。舞踏をたしかに名乗りもしたかったが果たせず、「ダンス」もなんか嫌で、なんとかシアターとかなんとか舞台とか考えたが、いずれも新機軸とはならない、むにゃむにゃで、この十年ずっと基本的な参照枠であったフランス思想を再び繙き、そうだよ、イマージュ/しるしです!兆候、痕跡、記号の探究なんだということだった。つづく。