ぐだぐだの可視化は問題の可視化である

午後、planBに菊池びよさん「二日月」を見に行く。出だしは非常によかった。というか、ぼくの席からの角度からかもしれないが、ドアの隙間の光りが、遠さ、気の遠くなるような、光りとなっていた。その後、足だけが投げ出されたシーンも、アイデアは大変よかった。もっともっと微速に徹していけばよかった。あと、気になったことは、菊池さんに限らず、女性ダンサーは、どうしても被害者意識に基づいて作ってしまう。暴力を受ける女性、犯され、陵辱され、抑圧され…。むろん、社会構造的に、あるいは支配関係の視点からすれば、女性は圧倒的に抑圧されていることはわかる。しかし、といつも思うのは、パワー権力をもってない弱者としての男性にかかる抑圧などは問題にならないという女性主義の視点は、間違っていると思われる。そうではない。弱者としての男性は女性である。あるいは社会パワーを持った女性は男性である。性差の生物学的次元と、社会文化的あるいは象徴権力関係的次元とは混同してはならない。だが、そのうえで、あらためて、女性へかかる男性からの暴力抑圧は、絶対に思考され分析され闘争されるべきではある。
 それで問題は、性差ではなく、被害者意識だ。イオアンナもそうだったが、構造的視点が欠けている。被害者といってもそれは事態の片面しかみていない。だれが加害者であるのか。その加害者が自分自身であることも十分ありえるわけだ。教育学のゼミでもそうだったが、「わたしはいじめられていました…」と告白する。そして、そのいじめがいかにひどいかを追認し、そうしたいじめが起こらないようにするにはという実践論が語られだす。その繰り返し。結局、なぜいじめが起こるのか、そもそもいじめとはなにか、それは子供期に限定されるのか、そこまで分析が届かない。まあそれはそのゼミがそうであったということではある。金子先生とかいうひとが教育社会学を講議していたが、あれはよかった。「教育学」は、社会学と連係しない限りどうしようもない。そもそも私にいわせれば、いじめられていない者もいないし、いじめに加担していない者もいないのだ。集団による個人への抑圧。排除、暴力。その定義に付け加えるべき要素はあるだろうか。とすれば、それはむしろ教育の現場に限定されてはならない、一般社会学的な問題だ。
 被害者/加害者。たしかにレイプなどのなんというか圧倒的な、直示的な暴力はある。しかしそういうことが舞台で主題とされているわけではない。それはメタファー的理解とでもいおうか、いや理解ではなく、メタファーとして美的に利用されるだけだ。むろんここはかなりむずかしい問題をはらんでいる。つまりそうでない舞台はありえるかということだ。あるいは私の舞台はそこからまぬがれているか。まぬがれたいとは思っているし、そのために必死で、あいかわらずずっと焦りながら、努力している。
 それにしても動員数がすごい。私の時と比べると…。そのことで、うつうつ考えてしまった。今年の赤字も60万くらいいきそうな計算になる。なのにちっとも客はふえないどころか、減っている。いや減っているどころか、はじめから来ない。だから、舞台も自主公演はとりあえず今回のロマンティックで止める。いや、止めたい。こんなこと書くと、宣言みたいに受け取られるか。
 いくら無為のポトラッチといっても、生活を犠牲にするポトラッチはポトラッチにすらなっていない。
そうだ、もう自主公演などは止めるべきだ。それよりは別の活動にした方がいい。自分の望む舞台を作りたいのであれば、それは撮影でいい。もう観客を動員することを考える時代ではないだろう。というか動員のことを考えると、結局それは商業主義になるだけなのだから。一応、来年も3本ほど予定が入っているがそれ以外ではやってはならない。まあそれでも赤字だろうが。ただ、これは自戒だ。つい衝動に駆られてやってしまう。やってもいいのだろうが、それは経済的負担のかからない、それが苦痛にならない程度にしないとだめだ。ただ、踊らないと気が狂いそうにはなるので、踊った方がいいのはたしかである。
 生活は安定させるべきだろう。だがそのことにすでに挫折してしまったいま、どのような選択肢があるだろうか。すでにそれがあったから、もう踊りしかない、と最後の望みのようにして、押し進めて来た。
 それは継続されるべきかもしれないが、戦略あるいは戦術が必要だ。まあsさんはは以前音楽祭を企画し、何千万もの借金を背負ったらしい。それに比べると、ちっぽけな話しではあるな。
 
 終わったあと、ひさびさに天使館に行く。今日は密度の濃い稽古だった。やはり楽しい。教師としても笠井先生は実にすばらしい。しかし、燃えるお札とは。月面/虚のダンスと炎。ほーき星コメット星のしっぽと先端。時間の先端としっぽ。未来と過去。ダンスは思考、感覚よりも速い。
 
 経済活動と芸術行為。それはパトロネージと分離して考えられるか。売れるものを作るということ。
 商業行為は否定されるべきものではない。なぜなら生活とは商業行為であるからだ。芸術を商業としておこなうという時に感じられる不快感は、むしろ芸術に崇高な感情をいだくからだ。つまりそれは宗教的な信仰に抵触するからだ。マーラーにせよシェーンベルクにせよジョイスにせよストローブ=ユイレにせよ、そうした問題を奇跡的にクリアできたひとたちだ。まあジョイスは本当に大変だったようだが。そういえばエルマンのジョイス伝はわたしにとって決定的な本だった。数年前、一気に読んだ。緑内障…、弟への手紙のなかで、「告白しよう。ぼくは馬鹿だ。」という言葉があった。あのジョイスにして。まあベケットも30才のころは酔っぱらって帰ってきて、鍵をなくしていたことに気付いて、ドアに頭をなんども打ち付けて、血まみれになったという。うーん、そういう話しを考えると、たしかにここで挫折したらあとはないと考えるべきだろう。勇気をもらえるような感じがある一方で…うーむ。日記でぐちってもしょうがないか、いや、誰にもぐちることはできないのだから、こうして、発散でもしないと、ずっとうつうつしてしまう。実際、舞台をつくるうえで、頭をなやますのは、その種のことなのだ。自分の才能とやらをある程度は確信しつつも、そんな確信は経済を前に吹き飛ばされもする、しかしこれは常套の陥穽だ。それこそ陳腐だ。
 自分で自分を激励するしかないよな。それにしても、下位問題としては、誰にむけて発信するかというのはある。それは大衆にはちがいない。
 しかし舞台の限界は、そこにいるひとに向けてしか発信できない。あとは噂とか批評がすこしは広げるものの、伝聞の域をでない。複製技術を使用したもの、はなにかのひょうしに、知らない未来のひとにも、届くかも…しかしそれはあまりにオトメチックか。うむ。だが、書くひとはそうなのだ。
 ダンスはヴィデオを見方につけるしかないのだろう。ダンスはより可視化された方がいい…
 一方で、舞台の魅力のひとつに、ライブ性がある。それは現前性ということなのだろうか。いまそこに直接見えるもの。直接見ることと複製技術を介したものとの受容者の体験の差。

 ということで、ぐだぐだの可視化は問題の可視化である。つづく。