人類という種(アンテルム)

折り込みのあと、神楽坂die pratzeへ来年招聘予定のビモダンスカンパニーの写真を持って行く。まかべさん、遅れてすみませんでした。高松さんと大谷くんと談話。

阿佐ヶ谷の古本屋千章堂で、ロベール・アンテルム「人類」宇京頼三訳購入。痛んでいたので、750円。というか、この本、むろんもっと前から、知っていたし、デュラス始める前に購入しておくべきだったのだが、痛み(水染み)が気になって、購入は控えていた。その古本屋でこの本を見たのはたぶん2年前ほど前だったと思う。以前、吉祥寺の古書店でもっと状態がいいのがあったのを買いそびれて、それが悔しくて、買わなかったのだ。
結局、2年の時間が経って、買ったわけだであるが、それにしてもその間、だれがこの本を手にとっただろうか。未来社から93年に翻訳が出版されている。定価3914円。だれが新刊を買い、水の染みをつけて、古本屋へ売ったのだろうか。

 原題はl'espece humaine。人類という種…
タイトルについては、序文で説明されている。

「ぼくはここで自分が体験したことを語る。そこでの恐怖は巨大なものではない。ガンデルスハイムにはガス室も、死体焼却炉もない。ここでの恐怖は暗闇、目印が絶対にないこと、孤独、絶えざる抑圧、緩慢なる死である。われわれの闘争のばねは、最後まで人間でありたいという、狂おしくも、ほとんどいつも孤独な要求にすぎなかったであろう。
 われわれの知っている歴史や文学の英雄が、愛、孤独、存在や非在の苦悶、復讐を叫んだにしろ、不正や屈辱に抗して立ち上がったにしろ、われわれはかれらがかつて、唯一、最後の要求として、種への帰属という究極の感情を表明せざるをえなかったとは思わない。
 その時、ひとが人間として、種の一員としての自己に疑いを感じていたということは、回顧的感情、事後の説明として現れるかもしれない。しかしながら、きわめて直接的かつ不断に感じられ、生きられたのはそれであり、またそれに、他人が望んだのはそれ、まさにそれなのだ。
人間としての性質を問題にすることは、人類への帰属という、ほとんど生物学的な要求を惹起する。ついでこれは、この種の限界、「自然」とその距離、その関係、つまりは人類のある種の孤独について考察し、結局は、とくにその不可分の統一性という明確な考えを理解するのに役立つのである。
           Robert Antelme 1947     」

 本番一週間前である。
 明日は通し。
 本来ならば、「言語素材」にロベール・アンテルムを明記すべきであった。
 
 だが、アンテルムの購入に、本番一週間前で間に合ったことを好運ととらえるべきだ。来年四月には、パゾリーニを素材とする。パゾリーニについても多くの作業が必要であるが、なにょりもひとがよくバカにする映画「ソドムの市」を、むしろプリモ・レーヴィの「アウシュヴィッツは終わらない」の翻訳あるいは寓話化ととらえてみよう。昨年ミュラーが終わったあと、次はパゾリーニあるいはジュネだと考えていた。それは稽古のなかでどうしてもよぎってきたからだ。今回もかれらはよぎっている。
 私はいまなお、自分が生きているこの社会を、収容所として考えている。社会の構成原理はなにも変わっていない。以前は、直接、関係づけることはできなかった。だがいまは、私の人生体験により、その関係づけに確信を持っている。
 ホロコーストアフターマスとしての痕跡はいたるところに遍在している。
 スウィフト的にこうもいえる。わたしたちはホロコーストを望んですらいる。
 最悪だ。