三、四、動詞的世界

ここ数日、まったく時間感覚がなくなったというか、アタマが働かない。パニックなんだろう。綾原と野沢さんに助けられて、なんとか最終構成まで行けた。
もともと妄想がひどい方ではあるが、本番前のプレッシャー(これは圧力と訳されるべきなのだろうか)で、妄想ばかりが先鋭化していく。それでいつも周りのひとを混乱させている。日記による対象化のおかげで、すこしはそのへんもどうにか矯正されつつあるのかもしれない。
まあ、まだまだ完璧主義でいけるほどには、順序的にも、条件的にも、無理なのだから、できるかぎりを。まあ、こうなるとすぐ「限り」にひっかっかて、無茶をいってしまうことになる。ごめんなさい、ごめんなさいですね。

 室伏鴻さんの「始原児」麻布die pratze。男たちの賛歌。前回の美貌の青空のときにはわからなかったのだが、今回よく分かったのは、ぼくと室伏さんとの方向性の差異である。ダンスの方向性、あるいはコンセプトか。昨年麻布die pratzeで、イマージュオペラ >>コントラーアタック<<「トラクトア/トロープス」を上演したせいで、こと舞踏系の上演を見るさいには、なんというか、意識するまでもなく、トラクターの残像が、幽霊のように見えてくる。ある意味では、やはり、ぼくと室伏さんは共通しもする。棺桶、をぼくは使ったわけではないが、むろんモチーフとしては、それはあったわけだし、やはり「三人」あるいは「三」という数は、重要な要素としてはある。
 そのへんはもはやあの上演においては非常に見えにくくなってしまったが。
今回の死の病いでは、「三」も重要ながら、構成上は「四」にもなっている。
ブレヒトの四角形については、ペーターゲスナーさんの朗読のさいに耳にした。ブレヒトドラマトゥルギーにおけるオーガニズムは、四角形を描く。ベケットは直線で、シェイクスピアは三角形とかなんとかの話しだったはずだ。あれはミュラーの言葉だったのだろうか。隣に座っていたクナウカの若い俳優がずうっとケラケラ笑っていた。
 さて、室伏さん、やはりもっと踊ってほしかった。前作と比べるとやはりさみしい。
むろんその代わりに、アイデアは盛り込んであったのだが。ターザン。あのハウスの曲もおかしかった。原始身体。室伏さんはアルトーを相当読んでいらっしゃることをどこかで知っていたのだが、力、衝動の走り方が、また独特、というか、誰よりもストレートである。三人の男性の身体。失われたと思われていた、オトコの体。
 ぼくはやはりそのへん、女性的である。
 室伏さんと田中泯さんとの比較対照も必要である。
それにしても、現役の舞踏系、つまり土方巽の影響を受けたダンサーを見るにつれ、ますますつのるのは、土方巽はなにをやったのかということだ。
 ダンスのコードを脱構築したというのは分かる。「肉体の叛乱」は断片的にしか見ることができないが、あそこではすでに強い衝動が走っている。当時それを見たひとに聞くと、印象がばらばらである。千賀ゆう子さんは、気品を感じたとたしかおっしゃっていた。エロティックとも。生成モデルであったようだ。以降の構成型とは異なる…。
 なんにせよ、いわゆる「舞踏」にもすでにやまと種類ができ、それで大いに研究もされてはいる。
 身体のヴェリエーション。身体の多様性、普遍性と個別性。
 
 構成とパニックで機能不全になった脳を、禁じた読書で、気分転換あるいは逃走している。そこで見つけたこと。
 動詞の普遍性。主語(これはsubjectともobjectともなる)の不確定性と比べて、動詞/述語は、より普遍的である。対象の性質を記述する、対象同士を関係づける…。
 身体的世界とは、動詞的世界ということもできる。
 A.J.エイヤー「ラッセル」II-a論理的構成の動機よりの印象。
…疑う余地がもっとも少ない要素から出発すること…
 イギリス経験論、再び。
 …疑う余地がもっとも少ない要素から出発すること…ダンスにとってそうした基礎要素とはなんなのだろうか。ダンスを決定するものは?