憎悪について(ニーチェコントラワーグナー)

今日で洗足池での稽古は終わり。うーむ、なんともまったりしておる。これはやばいのか?余裕なのか?いずれにせよ、判定は本番にて行われる。
明日は御徒町で、通し。いままでも、通し通しいっていたが、結局は流しというか、段取りつくりだった。その意味では、たしかにやばい。
こういう状態ははじめてである。その意味では、本番が失敗となれば、このやり方を今後ニ度とやらなければいいだけの話しだ。
 もはや失うものもないのだから、その意味ではぼくは「自由」である。

おとといから今日の朝にかけて、ニーチェワーグナー非難/批判/悪口につきあった。面白い。ただ、ニーチェは、いつまでも基本的なひとなのだが、時々、あの過度の非難にはついていけなくなる。ふつうに、「しつこいよ!」っていわれるだろうな、というかそういうしつこさではないくらい、しつこい。あるいは濃い。
 まあ西欧分明全体を批判しようとしたのだから、ああはなるよなという感じだが。
でもなんだかんだいって、大好きである。
 ぼくは高校のときにはマルクス主義であったが、19か20のころはニーチェ主義者となっていた。このへんのことはクロソウスキーのことをこの日記で書いていたころ、触れた。
 ワーグナー批判。細部=個別性への耽溺。歴島くんのいいかたと同じだ。
問題はあのワーグナーの魅力である。ワーグナーに一度もはまったことのない者は、どう考えても、ニーチェの批判は理解できないだろう。そうニーチェもいうだろう。
 ニーチェはついでに、劇場批判もやっている。劇場批判はルソーもやっていたはずだ。ところでニーチェのルソー嫌いは、どこか近親憎悪を感じる。
 ショーペンハウアー、クライスト、ドストエフスキーニーチェは好んだが、ルソーについては相当文句をいっている。
 フーコーが、ハイデガーニーチェ論なしにニーチェにはまることはなかったといっていたが、それも分かる。ニーチェは本当に、濃い。その濃さはたしかに巨人というしかない。以前読んだときもそうだが、ときどき、ほんとうに馬鹿というか、すくなくとも会いたくないなあと感じることもある。でも、魅惑される。
 最近は保留したままだが、あの秀逸なクロソウスキーニーチェ論などがないと、カーライルとかミルのように、忘れられていったろう。
 ハイデガーニーチェ論はまだ読んでないが、クロソウスキーにせよドゥルーズにせよデリダにせよ20世紀におけるニーチェ主義の系譜は、感情的にはもっとも共感できる系譜である。
 ニーチェを読むと、ある情熱が沸き起こる。初心としての憎しみとでもいおうか。
実際、ぼくを最も導くのは、憎悪、怒りの感情である。
 
 稽古のなかで表現衝動についての話しになったが、憎悪なしに、衝動は発生するのだろうか?たんなる愛などというものは、動機とはなりえても、作業を持続させる衝動とはならない気がする。
 対立を対立として肯定する。差異を差異として肯定する。
 怒りも憎悪も肯定され、弁証法止揚されなくてはならない。
 ただし、止揚といっても、それは「回収」であってはならない。

 そう、あの10代のころの憎悪こそ、ぼくの初心だ。