プロヴィゾリウム+テアトロ・コンパニア「フェルディドゥルケ」

シアターX「フェルディドゥルケ」。ぼくの敬愛するヴィトルド・ゴンブローヴィッチ原作で、プロヴィゾリウム+テアトロ・コンパニア。
 いくつか面白いところは当然あるのだが、というか、感想をほじくりだすと終わらなくなりそうだが、アヴァンギャルドももうほんとうにないのだというのをしきりに考えさせられる。つまり、ヴィトケビッチやシュルツ、ゴンブローヴィッチらの達成した「アヴァンギャルド=前衛的批判精神」は、21世紀現在、教科書に還元されているという。まあ国家教育=訓育の教典としては、日本よりはましか。日本の教科書から漱石や鴎外が消え、代わりに赤川次郎だとかなんだとかよく知らない書き手の文章が教科書に載る國ですから、この國は。何年か前、「文学界」かなんかでその教科書問題が取り上げられていた。そりゃ教科書なんて、どうでもいいと考えることもできる。その意味で、所詮、教科書、なにがのっても、もういいよ、という気持ちも分かる。しかし、やはりそりゃだめだ。赤川次郎なんかを載せるそのセンス、悪趣味というか、もう理解不能だ。ばかの極みの文部官僚。漱石は好きではないが、偉大であるに違いないし、現在の日本を考えるうえで、近代化の問題をさけることはできず、その意味で、頑固に、漱石は載せるべきだ。ぼくが教科書作るなら、当然世界文学史みたいになるだろう。ホメロスブッダ孔子(いまいち儒教はわからんが)、ダンテでも芭蕉でも蘇東波でもいいが、とにかく人類学的視点に則ったものしか、考えられない。「国民文学」「日本語」とかいうなら、「現代文」と「古文」を分割する理由が必要だし、まあなによりその教科書のウスさよ。なんであんなにうすいのか。情報量が圧倒的に貧困だから、若者になめられるんじゃないのか?教科書はその意味では、権威主義でいくしかないと思われる。
 この教科書問題、ゴンブロが教科書に載っているという情報を得て感じたことだ。
 
 上演については、デュッセルドルフでみたフィリップ・ティードマンのクライスト「こわれがめ」とかと比べると、なんということもないのだが、ティードマンにしろプロヴィゾリウムにしろ、そのコードの厳密さに圧倒されるのだが、まてよ、と思うのだ。日本には伝統舞台芸術として、能、文楽、歌舞伎…がある。それは自明のことだ。
ところがヨーロッパにはそういうものがない。というか、すべて線的に持続している。アヴァンギャルドといっても、それはシュトルムウントドランクでもルネッサンスの変種である。…

 ここはもっと丁寧に考えるべきだな。
 まあぼくがいいたいのは、日本のモダニズムの方が、10倍は苦労しながら作っていると思われたということだ。
 グロトウスキの苦労などより、土方なりなんなりの努力の方が、営為として、偉大だ。歴史的価値とでもいおうか。
 日本は日本で最悪ではあるが、ゴンブロの「トランスアトランティック」も翻訳出るしで、気長に「抵抗=思考」を続けないといけない。
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 笛田さん、菅原さん、太田省吾さんに挨拶する。太田省吾さん、初見であったが、予想をはるかに裏切る体格であった。背があんなに高いとは。
 
 その後、半蔵門のFMホールまで。ピエールさんがバロックダンスを踊るというので。
ローラン・テシュネさんのクラヴサン。ハープ。
 これについては、パンフ含めてまた書きたそう。