パゾリーニ/内臓感覚
家に帰って、また本棚整理。来年の春に上演されるもののために。パゾリーニでいこうと考えている。そうなると、ドイツ、フランス、イタリアをとりあえずなめることになる。やりたいことだからしょうがない。というか、これは海上さんにも言ったが、ぼくは本さえ読めれば人生それで終わっていいのだ。だが、生活、社会はそれを許さなかった。それで転がった結果、イマージュオペラとなった。
パゾリーニということで、アフリカ、人類学、ルネサンス、ダンテ、サド、もう大変だ。とくに人類学の問題は、ここ数年、放っておいたところだから、自分でも、そうかここに来たかと、ひそかに喜んでいる。
まあ、実際の上演にどう反映されるかは見当もつかないが、どうなるか。
次回はふたたび>>コントラーアタック<<でやるんで、きっついのをやろうかと思っている。というか、パゾリーニだからな。ミュラーどころではない。
ファシスト=ムッソリーニ主義者にしてモダニズムの頂点に立ったといわれるエズラ・パウンドを敬愛したパゾリーニ。
パウンドは、なんだろうか、難解なひとだ。いや、大好きである。
イマジズムのころの詩も結構すきだし、カントーズは、ようわかりまへんが、すさまじい、なんといえばいいか、歴史への関与とでもいおうか。すくなくとも、ケチではない。ああいう形での古典回帰は、ジョイスと並んで、すさまじい。
パゾリ−ニも、カルデロンやバッハやボッカチオや、ロンギ経由のルネッサンス絵画とかを相当愛している。反近代=現代なんだろう。
ジョイス、パウンド、パゾリーニらの古典回帰とはなにか。
彼らはモダニズムの典型といわれる(パゾリーニは違うが)。
ひとくちにモダニズムといっても、ボードレール=マネらのモデルニテと、20世紀中盤のアメリカンモダニズム、戦後フランスのモダニズム、ばらばらである。
まあこういうのはどうでもいいか。
パゾリーニの内臓感覚。内臓感覚の問題。
内破的探究?
マルコ・ベルポリーティによれば、カルヴィーノは、セリーヌ、アルトー、ジョイス、ベケット、ヘンリー・ミラーらを系譜立て、「贓物的」であるとした。(「カルヴィーノの眼」青土社p194)
カルヴィーノについて書かれたこの本の文脈はおくとして、この整理について、かつてベーに話したら、へーと少し意外に思っていたようだ。
ベケットは、たしかに、暗黒舞踏のことを考えれば、わかりやすいが、よく分からないのが、ジョイスを贓物的とするココロだ。
たしかにフィネガンズウェイクなんて、贓物のかたまりみたいではあるが…
ラブレーとかとの関連もあるかもしれない。
ライムント・ホーゲさんに、パゾリーニの画集をもらったっけ。デュッセルドルフの本屋で、大きい鳥と小さな鳥の絵コンテを買った。思い出してきた。あと、フォンタナの未発表作品集、リヒター画集を買った。
美術館によく行ったが、キルヒナーが妙にドイツ人には好かれているようだ。あと、知らない画家で、どこにいってもその画集が置いてあって、日本との趣味が全く違うことに驚いた。
いや自分で書きたかったことは、ドイツに行って、妙に思ったのが、イタリアであった。よっぽどミラノくらいは行こうとしたのだが、ぼくの性格上、最大の遠出は、ハイデルベルクまでだった。ハイデルベルクについてもまた書いておかないと、いずれ忘れそうだ。また行きたい。マンガでよく見たむこうのお城なんだもんな、ほんとに。
思い付いたこと。ゴシックと内臓との関係について。これは舞踏関連の話しとしても、明らかにすべきところだ、というかぼくにとって。