すべての革命はのるかそるかである/雲から抵抗へ

ストローブ=ユイレ「すべての革命はのるかそるかである」「雲から抵抗へ」。
「すべての革命はのるかそるかである」という文章は、ジュール・ミシュレによるものらしい。ミシュレは、バルトもデュラスも好きだったようで、その文体がとくにすばらしいとどこかで聞いていたが、この文はたしかにすごい。toute revolution est un coup de des.この文をタイトルに選び、パリ・コミューンゆかりのベール・ラシェーズ墓地の芝生のうえで、マラルメさいころun coup de desを朗読させるというストローブ=ユイレのアイデアもすさまじい。
 すばらしい。もうこのころのストローブ=ユイレは完璧であるとしかいえない。なにがどう完璧であるのか。表現形式、表現内容、そしてその作品の存在価値…。
 11分。ストローブ=ユイレは、初期より、圧縮を導入していたが、もうこの域になると、神業としかいえない。それにしても、圧縮技法は、どのように発想されたのだろうか。精神分析上の概念でもモデルにしただろうか。そうかもしれない。
 映画においては、圧縮は基本技法なのだろう…というか、すべての表現されたものは、ある世界の切り取りであり、圧縮は、もうすべての表現に共通することだ。
 舞台もそうだし、絵画も音楽も言語芸術もそうだ。
 フレーム、媒体的条件としての…。
 ただ、問題はいつだって、なにを優先し、なにを削除するかの選択問題である。
なんの主題を、なんのイマージュを、どの時間、どのシーンを、どのダンスを、選択するか。

 そして、なにを選択すべきかという、倫理の問題。

「雲から抵抗へ」2度目である。印象がまた違う。が、数年前に見たときと、感動する箇所は同じでもあった。パルチザンの話し、どうしても、パヴェーゼファンだった親父がだぶって見える。そして、なによりあの光り。エンペドクレスでもそうだが、ぼくがなにに惹かれるといって、あの光りである。リヴェットの「美しき諍い女」の、バルコニーからのぞける光もいいが、ストローブ=ユイレの場合、固定ショットのため、その光りが、十全に、見える。ぼくの光りへのフェティシズムはどこから由来しているのか知らないが、ずうっと、頭から離れることがないのは、小学生のときにみたある日本映画での夏の光である。その映画は、「wの悲劇」だったかもしれないし、ほかのだったかもしれない。そういえば探している映画はほかにもある。小学校低学年のときにテレビでみたSF映画。マイナーなものだろうが、あのころはよく放映されていた。テレビで放映される映画も、あのころはアリゲーターだとかジョーズだとか巨大蟻についてのやつとか、多かった。まあ、自分が子供だったから、その手のやつにしか興味がなかったのかもしれない。
 さて、「雲から抵抗へ」。オイディプスとテイレシアースの対話はとくにすばらしい。他の対話については、文脈が不勉強でよくわからないというのもあるが。
 神話といえば、デュメジルをやってらした前田先生であるが、ぼくは結局、神話研究にははまれなかった。あれは神話をまず好きにならないと、だめだ。嫌いではないのだが、オタッキーにはまらないと、だめだ、ということだ。
 最後の篝火の対話もいい。息子の最後の言葉。神がそのように不公正なら、搾取だっていいじゃないかうんぬん。
 そうして、第2部に移る。
ある村落共同体のなかでパルチザンがどのように扱われているか。
あの黒画面で暗示される悲惨な家族殺しの事件。女スパイを巡る話。最終部分は、ものすごいスピードで切断されるかのように、たたみかける。
 この速度は、むろんハリウッドの速度と異なる…。
ブレヒト「母」(ああ!また見たい!)の速度と同質のものだ。