ブランショ/アンテルム

モーリス・ブランショについてキーワードを作ってみた。家にあるブランショ文献を漁って、まとめた。とくにマガジン・リテレールのブランショ特集号は、まだ日本に紹介されてない(ぼくの知る限り)情報などが盛り込んであり、大いに勉強になった。
その生涯をざっと追ってみると、ほんとうにブランショは過激である。
アクション・フランセーズのシャルル・モーラスは興味深い。
福田和也「奇妙な廃虚」をじっくり読みたい。

ロベール・アンテルムについても作った。マスコロ、デュラス、アンテルム、ブランショたちによる、五月革命
デリダとの交流。
そうして、もう、みんな死んでしまった。

記憶違いかも知れないが、ブランショの伝記が出てたような気がする。
この際、買うか。

でもいいかげん、収納スペースがないので、なにかを処分しなくてはならない。


エズラ・パウンドパゾリーニとの対話をまた読む。さすがのパゾリーニも緊張していたらしい。パウンド翁の風格は、幸田露伴とかと通じるものがある。

はー、でもやっと、生き返った感じがする。でも、明日までに、来年の4月の公演のチラシのためのデータを送らなくてはならない。
うーむ。
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モーリス・ブランショ Maurice Blanchot  (1907-2003)

■戦後フランスを代表する批評家・思想家。

■年譜

ストラスブール大学エマニュエル・レヴィナスと親交。ドイツ現象学プルーストヴァレリーなどを共同で読む。

シャルル・モーラス系統の雑誌「コンバCombat」の政治記事主幹、「ジュルナル・デ・バjournal des debats」紙時評家となり、「テロリズム、公共の救済の方法としての」(1936)など、急進的な書記活動を行う。ジャン・ポーランの紹介で、「いかにして文学は可能か」を出版。「芸術に反対する無益で盲目的な闘争を経由してしか作家は芸術を産み出せない」とするなど、後の思想が予見されている。

1940年、バタイユと出会い、バタイユの「内的体験」の概念にたいして、「内的体験それ自体が積極的価値となり、権威となる」と批判し、バタイユの「無神学大全」構想を大きく変容させる。また、バタイユの記録によれば「精神的な生とは、救済の欠如、一切の希望の放棄のなかにしか、みずからの原理と目的を定めることができず、自己自身への異義申し立て、非ー知であることしかできない」と語ったという。

1941年、「謎の男トマ」で小説家としてデヴュー。この年、レヴィナスの妻、娘をかくまう。

戦後、マラルメリルケカフカニーチェルネ・シャールヘルダーリンらの緻密な批判的読解によって、戦後文芸批評の基本枠組みを提示する。とりわけミシェル・フーコーの「外の思考」やジャック・デリダらに大きく影響を与えた。

1955年「文学空間」の出版。

ブランショは、書くことを人間の根源的体験である死と結び付け、「作品は、何の証拠もなく存在し、また何の用途もなく存在する」(「本質的孤独」)とし、作品と作家とを分離し、「非人称性」「無為」「無関心」「隔たり」「不在」といった諸概念を巡り、書くという行為の徹底した分析・探究を行った。

1958年、ド・ゴール将軍のクーデタに抵抗するディオニス・マスコロ、ロベール・アンテルムマルグリット・デュラス、ルイ・ルネ・デ・フォレ、モーリス・ナドー、エリオ・ヴィットリ−ニらと「拒否」を発表。

1960年、マニフェスト121。Revue internationalをマスコロ、ヴィットリーニらと共に編集主幹となり、企画する。アンテルム、ビュトール、デ・フォレ、デュラス、レリス、ナド−、カルヴィーノパゾリーニ、バッハマン、エンツェンスベルガー、グラスらが名を列ねた。ルネ・シャールやジュネもテキストを提供した。4年後、座礁し、ブランショは絶望する。

1962年、「期待/忘却」。バタイユ没。「友愛」を亡き友に捧げる。1966年、クリティック誌ブランショ特集。ヴィットリーニ没。

1968年五月革命の際に、マルグリット・デュラス、ディオニス・マスコロ、ロベール・アンテルムらとともに、ソルボンヌで組織された「学生ー作家行動委員会」の主要構成員となる。

1983年、ジャン・リュック・ナンシー「無為の共同体」に呼応した「明かしえぬ共同体」を発表。

1990年、ロベール・アンテルム没。1994年「私の死の瞬間」出版。

1995年、レヴィナス没。1996年、デュラス没。ディオニス・マスコロ没。

1998年、ジャック・デリダ「滞留ーモーリス・ブランショ」出版。

2003年、ブランショ没。デリダ、「永遠の証人」を追悼文として発表。

■主要著作

1941「謎の男トマ」Thomas l’obscur

1942「アミナダブ」Aminadab「いかにして文学は可能か」

1943「踏みはずし」Faux pas

1948「死の宣告」l’Arret de mort「至高者」Le Tres-Haut

1949「焔の文学」Le Part de feu「ロートレアモンとサド」「白日の狂気」La Folie du jour

1951「望みのときに」Au moment voulu

1953「私について来なかった男」celui qui ne m'accompagnait pas

1955「文学空間」 L'espace litteraire

1957「最後の人」Le Dernier homme

1959「来るべき書物」 Le livre a venir

1962「期待 忘却」 L'Attente l'oubli

1969「終わりなき対話」L'Entretien infini

1971「友愛」L'Amitie

1973「彼方への歩み」 Le Pas au-dela

1980「災厄のエクリチュール」L'Ecriture du desastre

1983「明かしえぬ共同体」La Communaute inavouable

1994「私の死の瞬間」 L'instant de ma mort

「政治論集 1958〜1993」Ecrits politiques 1958-1993

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ロベール・アンテルム Robert Antelme 1917-1990

フランスの作家。

■年譜

1917年、南コルシカ、サルテーヌ生まれ。バカロレア取得後、パリ大学法学部に入学し、そこでマルグリット・デュラスと出会う。
1939年、デュラスと結婚。
1940-44年、内務省情報局文書係補佐として働く。
1943年、デュラスとともにレジスタンス組織MNPDG(戦争捕虜救出国民運動)に入る。
当時の組織長のひとりはフランソワ・モルラン(後の大統領フランソワ・ミッテラン)。
1944年6月1日、コルシカに行っていた両親のアパルトマンで、妹、他のレジスタンらとともにゲシュタポに踏み込まれ、逮捕される。ミッテランとデュラスは間一髪で難を逃れた。
マリー・ルイーズは、女性用のラーフェンスブリュック強制収容所に収容され、殺害される。
ロベールは、コンピエーニュ政治犯収容所を経て、1944年ブーヘンヴァルト強制収容所に護送される。
その後、ダッハウ収容所から、半ば非合法的な手段で、ミッテランらの尽力により、奇跡的に生還する。

1946-47年「人間という種」L'Espece humaine出版。

1946年フランス共産党入党。
1950年、ソヴィエトのラーゲリを巡る問題で、共産党除名。
1951-1981年、ガリマール社で勤務。レイモン・クノー監修プレイアッド版百科事典を担当。
1985年、デュラス「苦悩」発表。
1990年、没。

邦訳「人類」宇京頼三訳、未来社1993