ブレヒト問題

昨日は新文芸座で、エリック・ロメールのオールナイト上映会。
グレースと公爵」「緑の光線」「海辺のポーリーヌ」「クレールの膝」。

ストローブ=ユイレを巡って、火種が出来たんで、まずはそっちの方から。

「国家文化政策」に関する問題。
これはぼくが、ストローブ=ユイレの「労働者たち、農民たち」を、観て、感じた問題であった。これはまったく個人的な感想だし、印象である。
 芸術とパトロネージの問題も、考え出すとややこしいが、現在、すべての(多分)芸術は、国家なり企業なりのメセナ助成なしには、成立しない。むろん、ピーター・バークが詳細に研究しているように、イタリア・ルネッサンスにおいても、同様の問題はあったようだ。「イアリア・ルネサンスの文化と社会」岩波書店
 で、ぼくが舞台関係で悩んでいたせいで、好きな映画も見れず、ブックオフで安く買ったヒッチコックとガレルのヴィデオすら見ずに、2年ぶりくらいに映画を観ての、感想が、ストローブ=ユイレ先生、これはいかんですよ!という感想だったわけだ。
 むろん、そこにはMという名の若い批評家とのやりとりも文脈のひとつにある。ひどい条件下で舞台製作をやっているぼくは、ストローブ=ユイレと比較されながら、批判される。うーん、込み入っているな。
前の日記のコメントより。

 N・B『ベルリナー・アンサンブルをDDRのバックアップでやっていたブレヒトのことを考えれば国家の保護なんてどうでもいいと思うけど、ブレヒト主義者としてのストローブ=ユイレにとって上記の批判ははたして彼らの擁護になっているのでしょうか?豚こそが問題でしょう彼らにとって、たとえ豚にとどかないことが現在の条件かもしれなくても。東部戦線で五年以上這いずり回ったハインリッヒ・ベルの原作の作品を軍事おたくの駄本を元に「幼稚な主題」と言われてしまうことはブレヒト主義者には大問題でしょう(ではどうできるかというのは難しいですが)。もちろん、芸術の自律を基本とするなら別ですが。まあ、「労働者たち農民たち」についてはMさんの評価も低いけど、この作品から急に「国家の文化保護政策」を受けたわけではないでしょうからいかにもまずいでしょうね。』

kairiw『どうも、昨日、新文芸座ロメールをオールナイトで観て来て、いま起きて、チラシ関係の作業やって、当の「批判」?というか、護教を、観てみました。「映画と文化」関係うんぬんの件は意味が分からないんですが、とりあえず、ぼくが「批判しなくてはならない」といったのは、あくまで、ぼくにとっての個人的な感慨ですね。つまり、ぼくにも関わる、助成金問題です。
むろん「労働者、農民」から急に「文化政策」を受けたわけではないだろうし、そう書いたつもりもないんですが、もっと言い方を変えれば、ストローブ=ユイレって、よくできたNHK教育番組で終わってないか、という懸念を、惹起したということです。
久々の映画が、「労働者たち、農民たち」だったということ、ぼく自身がこの2年、ブレヒトを巡っていたこと、そして、ブレヒト主義者の先輩であるストローブ=ユイレに、過剰に期待していたことが、ぼくの印象を導いたのでしょう。
まあシネフィル相手にこんなこと話しても、埒あかないから、めんどくさいんですが、どうしようかな、まあ、考えてみます。』

ということを分解してみよう。

ストローブ=ユイレがいかに偉大かはすでに前提である。それは別の日の日記にも書いたことであるが、廃人状態で、日々を送っていた当時のぼくにとって、「エンペドクレスの死」「雲から抵抗へ」は、真理の啓示としての光以外のなにものでもなかった。
 あそこから紆余曲折を経て、ハイナー・ミュラーやクラウス・パイマン、そしてドイツ文化会館でのブレヒトの映像上映会、とくに「母」を通過し、イマージュオペラ >>コントラーアタック<<「トラクトア/トロープス」に至ったわけだ。
 このあたりのことは、ブレヒト問題といってもいいかもしれないわけだが、一方にミュラーゴダールが、ブレヒト主義者として、元気に闘争=抵抗を続け、ストローブ=ユイレも、その独自な発明をもって、抵抗をつづけた。

だが、と思うのだ。とくにそれは「セザンヌ」をはじめて観たときに、感動しながらも、うすうす感じたことであったが、これは、良質の教育映像の域を出ないのではないかということだった。むろん、NHKの教育番組のレベルではないのは当然だし、そもそも教育映画というヴィジョンは、ストローブ=ユイレの基本スタンスであるブレヒト主義に由来するものだ。(教育映画といえば、ロッセリーニの膨大な作品群があるが、あれらも上映されてほしい(されているかもしれないが)。)
 ただ、これはストローブ=ユイレへの批判というよりも、むしろ日本におけるストローブ=ユイレの受容のされ方への批判である。つまり、シネフィルと自称する映画ファンによる趣味の共同体への批判である。ストローブ=ユイレは確かに導入されるべきだし、細川晋さんのパンフレットというよりかは研究書である「ストローブ=ユイレの映画」フィルムアート社の価値は揺るぎないものであるし、あるいは浅田彰氏の貢献も、揶揄されるべきではない。
 紹介のされ方は、ことストローブ=ユイレに関しては、幸福であったとすらいえるだろう。
 問題はその後だ。データを調べる余力がないが、細川氏の本の奥付を見ると、97年12月とある。ぼくが観たのは、よく思い出せないが、98年か99年だ。それはどうでもいいが、あれからもう5年が経ち、東京でもすでに何度も上映が続けられている。
 2002年のときだったかは、ものすごい列ができていた。映画学校の授業かなんかのせいか、あれにはまいった。
 どこからいえばいいか。敵はシネフィル的受容だ。べーもいうように、豚=大衆に開かれていかないかぎり、それはむしろ最悪な形でのアカデミズムの変種であるとぼくは考える。むろん、この「趣味の共同体」問題は、舞台芸術でも、音楽でも、芸術全般にあてはまる問題である。
 「ストローブ=ユイレって知ってる?ああ、知らないんだ。ふーん」みたいな、独善的あるいはスノビズム的なあるいは「オタク」的な検閲精神、とでもいうか。
 これは往時の現代思想、というか「ポストモダン」と同種の傾向である。
 それゆえ、そうしたプチブルとしかいいようのない、シネフィルはどうでもいいといえばいいのだが、問題が、ブレヒトに関わる問題であるから、それでかたづけるわけにはいかない。すでにおおくの人間が、「シネフィル」への嫌悪感は表明している(浅田氏もどこかでそういっていたが)わけだが、これはいまいったように、日本の「インテリ?/知識人?」にひろくあてはまる。知識社会学的にも、このあたりはブルデューを踏まえて、だれかがやりそうなものだが、これは自己批判(ぼく自身のことも含めて)に関することなので、まあどうだろうか。結局、これは日本の精神文化(とあえていうが)の成熟度の問題なのか。
 舞台芸術界(?)には、とりあえず海上宏美氏の努力=行動がある。

いろいろあるな。ストローブ=ユイレにせよファスビンダーにせよロッセリ−ニにせよヴィスコンティにせよ、かれらはみな演劇/舞台に関わっているし、ドイツに行った時も感じたが、舞台芸術と映画とは、連続している。
 それがここ日本では、俳優を巡る制度以外では、分断線がしかれ、舞台、映画その双方が、自身の領域に閉塞している。
 はー。あほくさい。丸山真男の図式がいまだ有効なんですね。ささらとたこつぼ

だから、だれのための芸術か、ということですよ。

ストローブ=ユイレが、この國では、芸術至上主義/趣味の共同体のなかに回収されてしまうこと、そして、ストローブ=ユイレの美しい映像美は、そのことを意図せざる結果として惹起するというよりか、むしろ、必然的に、そうした事態をもたらしてしまうのではないかといことだ。
 ストローブ=ユイレに潜在する美学主義(?)は、ことがストローブ=ユイレだからこそ、やばいのだし、ブレヒト主義の基準としてのMくんのいう<B級エコノミー>という規準にしても、91年の「アンティゴネー」をもって、停止させてはいないかという懸念がぼくにはある。だが、これは何度もいうように、むしろ日本のシネフィル的共同体への批判である。
 べーに教えてもらって、件の日記読んで、コメントしようかとも思ったが、相手がシネフィルの典型なので、もう、どうでもよくなってしまった。ただ、これらのプロブレマティックは、仮にブレヒト問題と読んでみたが、今後、ぼくが作品をつくっていく上で、重要というか、根幹に関わる問題であるので、これを機会に、書き連ねた次第である。


 
(つづく/中断)