クリティックのクリティック(のために)

プロトシアターでDA・M(ダム)の打ち合わせ。楽しかった。
そういえば、ダム/大橋宏さんについて触れつつも、公表しようかどうかちょっと迷ってたのだが、ぼくは、来年3月のダムの新作に出演することになっている。
タイトルはおそらく変更ないだろうが、「今日は私の誕生日」というものだ。
さすがに内容については、ここではいえないので、とりあえず。

http://homepage3.nifty.com/da-m/

ダムのようなハイレベルのシアターカンパニーがあまり有名でないということ、いや、もちろん舞台をちゃんと知っているひとには有名なのだが、「業界」というか、一般的には、知られていない。このこと事態が、どう考えても、異様であるし、ニッポンの舞台芸術の世界がどれだけねじれているかを示すものだ。
 批評家も、ほんとうにごくわずかの例外をのぞいて、ただのミーハーちゃんで、鑑識眼もなにもない、ばかづらさげて、「業界人」ぶっている。
 別に、イマージュオペラが評価されないから、そういっているわけではない。一消費者、いちニッポン人として、怒っている、というかあきれているだけのことだ。
 ピナ・バウシュとか太陽劇団とかに感動するのは、誰にとってもできることだ。しかしばかな自称批評家どもは、そもそも「感動」することは「批評」とは関係ないことにきづかないどころか、あろうことに自分の「感動」を特権化しようとしているだけだ。
 まえに、シネフィル論でも触れたことだが、「趣味の共同体」をつくることにしか、興味がない、ということ。
 名指しで、どの批評家がばかであるかを事細かに論じてもいいのだが、その気も起きない。
 映画はその点、まだ批評家もいるのだから、ましだ。舞台芸術批評に関しては、その数が、ひとけたなんだから、やばいよ、まじで。
 しかしながら、受容美学の視点からすれば、作品を決定するのは、受信すなわち作り手ではなく、受容者すなわち観客なのだから、頭が痛くなる。
 すこしはまじめにやれよ!批評家先生ども!!

 責任感覚の問題でもあるな。本来、批評とは、大衆としての観客をリードする役割にあるはずだし、そうあるべきだ。バルトだって、ドゥルーズだって、エリートの倫理でもって、偉大な批評を書いた。別にバルトになれとはいわないが、批評家としてそれで社会的地位も持ち、それで食ってるなら、それなりのことをやるべきだろう?
 書くことの倫理の、絶対的欠如。
 しかし、もうこの設定自体、成立しようがないのかもしれない。
 エリート/大衆の区分など、無効となった。「知識人の終焉」論とかが流行っていたころ、聞かされたことだ。
 しかし、だからといって、そうです、わたしはエリートではありません、一大衆に他ならないんですと開き直られても困る。やばい。これこそ、クリティックだ!危機はいまそこに!なんて、ばかな映画のキャッチコピーみたいなこといいたくないが、事実、そこにある。イリヤとかいうと、レヴィナス先生、泣くか。泣きはしないか。ばかなニッポンなんて、田舎の問題にすぎないよな、ほんとに。そのくせ、金だけはまだあるみたいだから、おれ以上に、恥さらしやってる。前も書いたが、ヨルダンに何十億「支援」したって、ニュースで知って、その後、外務省のHP見たら、兆になってた。
 どういうこと?一国民として、知る権利を行使する必要がありますね。支援の理由と根拠と意図は?
 外務省の問題にしても、マスコミも、ちょろっと不祥事うんたらくらいでしか論じない。あたかも「情報」は本質的問題に触れてはならないといわんばかりに。いや、まあこれはぼくが不勉強なんか、それはそうだが、テレビを買うひまもないもので。
 だからこうして、印象批評やってんだ。ぐだぐだいうとりゃ、いつか、問題も整理されてくるだろう。
 なんの話しだったか。ダムが公正に評価されていないということか。
 そして、エリートか。エリートが本来あるエリートとして、活動していないということは、考えてみれば、それをよしとする大衆=受けてがいるということだ。
 国民が国家をチェックできないと、国家の指導者は、野放し状態で、ファッショ。
 ローマ帝国か。ニッポンは「帝国の矜持」すら持っておらん!とかいうと、民族派みたいだな。いや、でも、おいは、いち九州人として、ニッポンにしっかりしろ!といいたかと。まあでもたかだかアメリカのいち植民地に向かっていっても、仕方ないことか。悲しいね。
 
 なんかつい、喋ったが、パゾリーニ関係で今日は芳林堂で、グラムシ「知識人と権力」みすず。閉店間際だったので、「現代の君主」と比較できなかったが、あっちを先に買うべきだったかもしれない。
 グラムシは、もう大分前から、当然知ってはいたが、読む機会がなかった。パゾリーニやるなら、グラムシを押さえないことには始まらない。ということはないのかもしれないが、「グラムシの遺骨」を書いてるくらいだし、パゾリーニへのグラムシの影響は相当深いようだ。ムッソリーニもはじめは社会主義者だったあとで、ファッショ党を作りうんぬんで、このへん、また、面白いが、大変である。
 
 イグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」岩波

霊操 (岩波文庫)

霊操 (岩波文庫)

 ドブロリューボフオブローモフ主義とは何か?」岩波

オブローモフ主義とは何か?―他一編 (岩波文庫 赤 610-1)

オブローモフ主義とは何か?―他一編 (岩波文庫 赤 610-1)

 田中美知太郎「ソフィスト講談社ソフィスト (講談社学術文庫 73)


 ロヨラはバルトの紹介。前に探したが、なかった。この本、いずれ入手しにくくなりそうだから。
 ベケットが、「オブローモフになることを引き受けたのだ」と言ってて、ああオブローモフってこのことか、ということで。
 「ソフィスト」は、絶版だったし。でもいま打ち込んで、そうか美を知る太郎かと。それでギリシアかと。これは、本名なのだろうか。

そう、昨日はアッキーに呼び出され、ヴァイン。

ひさびさにゲロった。いつぶりだろう。アルコール接収をコントロールできなかった自分の過誤に腹が立つ。
 
「接収」じゃなくて、「摂取」。「接収」だったら、「国家権力などが、強制的に人民の所有物を取り上げること」だ。収奪!財産とは収奪である、だったか、プルードン