朝はやく目が覚めた。
小学校まで散歩。ノスタルジア、感傷の念は起きない。
すでに数年前、十分堪能したからだろうか。
いつかだったか、この、幼年期を過ごした地域を、散歩したとき、
しきりにノスタルジアの感情に襲われた。
夏の方が、喚起されるのかもしれない。

デビッド・リンチ「ストレートストーリー」。
ゆったりとした時間。
野宿でのウインナー焼き。ヘミングウェイの心臓のなんとかという短編だったかに、ベーコンと魚とを一緒に炒めるという記述があって、うまそうだと思い、以前、作ってみたことがあった。なんの魚だったかな。オイルサーディン?
ランローラランはあきらめる。水汲みに行く。

BSなんて、テレビすら、いま東京の部屋にはないので、見ることもできないが、なかなかこのペースで、映画が観れたらいいな。

ヴィデオも以前は毎週12本とか借りたり、レンタルだけじゃなくて、図書館からも借りたりで、一日4本、毎日見たりしていた、という行為は、シネフィルが一般化した現在、なんということもないが、ぼくの場合、目がドライアイで苦しかったものだ。
あれで、ヴィデオ観るのも、映画も、観るのをやめたのだった。

そのてん、舞台は、行くのがおっくうといっても、部屋で何時間も画面にはりつくよりは、からだにはいい。こんな理由で、映画をあきらめ、舞台にはまるというパターンを持つひとはほかにいるのだろうか?
 むろんぼくが舞台に関わりだした理由はほかにもあるわけだが、実はこうした、なんというか身体的条件、物質的条件は、結構、重要である、ぼくにとって。
 まえにも書いたが、この辺、ぼくの変な「合理主義」によるのかもしれない。

車のなかで、ノースロップ・フライ「T.S.エリオット」。車のなかでの読書というのも、幼年期とかぶることだ。家族でよくドライブにいっていたが、その頻度は週3とかだった。これは少なくとも、周りでは異常な数値である。その数値の理由もぼくなりに分析したのだが(とくに親父の行動の理由について)、なんにせよぼくはそこで漫画を何冊も読んだのだ。酔うのだが、読みたかったからしかたなかった。それで、車中での読書というのは、移動の振動が、大きな条件としてあるわけだが、あんまりにもそれが習慣化したもので、そのせいで、ずっと机に向かうというのが苦手である。苦手なくせして、本が好きなのだからしょうがない。ほんとうに好きなのかと自問したこともあったのだが、やはり好きなのだ。知ることの快楽というやつか。
 読書のノイズ。実はいまでもときどき、歩きながら読んだりする。部屋のなかでも時々そうする。
 本屋での立ち読みで、異常に集中力が持続し、2時間とか3時間、ずうっと、立ち読みすることも、ひまなときはやる。本屋の営業妨害?いや、その分、買ってるから、別にいいっしょ。

 玉三郎さんによる歌舞伎案内。懐かしい歌舞伎座が映っている。玉さんの声、鼻母音だったか、フランス語向きだねえ、素で見ると。