文化と人生、焚書(的)

kairiw2005-01-03

そういえば、昨日はすごい渋滞だった。普段ならありえない光景。こうしたこと、つまり地方都市が正月には混雑することは、むろんいまに始まったことではないし、またぼくは何度か東京で正月を過ごしているので、都心がガラガラになることも知っているわけだが、それにしても、あらためて、どうなのだろうか。
 「実家」が地方にあるということ。「親」がいる。しかし「親」が亡くなったひとの場合は、それでも故郷に帰るだろうか?
 渋滞の理由のひとつとして、実は意外と、佐世保という西海地方では大きい方の都市に、周辺地域のひとたちが遊びに来ているということも考えられる。長崎県ではたしか長崎市に次ぐ都市であったはずだ。いまもそうなのか。
 4歳より12歳までこの町で育ち、以降、年に数回帰る年が続き、家が混乱に陥ったときは長期間滞在した。滞在した期間はそうすると、10数年ということになる。3分の1の時間である。東京に10年弱と幼年期における3年で計15、6年くらいだろうか、そうなると、それ以外は、福岡での2年と移動、大阪での入院など…こうして計算すると、結局東京での生活時間が一番多いことになる。0歳より3歳までと18歳より現在に至るまでのあいだ。「故郷」といってもべったりはしていないのか。ある「隔たり」があった。幼年期においては、東京の吉祥寺が「故郷」であった。家のなかの「文化」と地域の「文化」との差異。前者は、時代にそったもの、「文学・芸術」などのいわゆるハイカルチャーで、後者は、風土というかローカルな、「民俗」的、フォークロア的な「文化」。こうした「文化的差異」はじつはいまでもなお問題であり、方々で今日なおアクチュアルな問題ではある。なにに、どんな種類の「文化」に関与し、固着するか。これは個人を決定するものだ。「文化」と人生との関係について。

 「マレーナ」ジュゼッペトルナトーレ。あほみたいなメロドラマというかなんというか。プロットについてはよくイタリア人ってこんなの金かけて作るなという感想しか沸かないものだったが、シチリアマレーナにかけるリンチというのは、なんかリアルであった。マルケスの「予告された殺人者の記録」の雰囲気。アラブ、セム族の文化社会的同一性も感じられた。「人間ども集まれ」でも女将校がリンチされ、フランスのなにかの映画でも「ドイツ人と寝た女」はリンチを受けていた。シャリヴァリではないが、集団リンチ。ポグロムも違うが、なんにせよ集団それもローカルな集団とはこういうものだ。ロメール「グレースと侯爵」における「革命」も想起される。「民衆」の神話?
「民衆」肯定論と否定論。ロメールもいっていたが、「よき民衆」もいたのだろうし、いるだろう。実際に、いもした。だが、…。
こういう光景を見ると、次いでみたスクリーム3ではないが、遊戯としての殺人を施したくなってくる。まああれはあれでトラウマ系だが。ウェス・クレイブンエルム街の悪夢以来か。エルム街の悪夢の3はこわいというか、きしょかった。ゴキブリホイホイのなかの。ゴキブリものも、あのころあったな。もう題名を忘れてしまった。

 歌舞伎関連の本、4冊。演劇界とか郡司さん渡辺保さんの本とか。クロニック世界全史。定価17000円が2000円の、地方の古本屋。

 図書整理を続けなくてはならない。シュルレアリズム関連が困ったもので、売るに売れない。

 エレンブルグ「文学芸術論集」
 「ドイツ表現主義」5巻、河出書房
 アルベール・ベガン「真視の人バルザック」審美社
 セバスティアン・シャルレティ「サン=シモン主義の歴史」


 コンラッド「帰宅」

帰宅

帰宅

 ボーボワール「サドは有罪か」

サドは有罪か

サドは有罪か

 あや原の本。持ってかえるか。
 
 植草甚一唐十郎石川淳全集(どーするか)、中村幸彦とか、国文系は全集ものが多くて、ほんとうに困る。売るといっても、二束三文だし、…初版本ねえ。ネットで古書店開いたとしても、…鈴木信太郎全集とか、だれも買わないだろう、いや、一誠堂にでも聞いてみるか、いやそれよりも処分すべきものはいくらもある。
 まあいずれにせよ、10年前の半分にはなっている。
 おとっつぁんのコレクション、蔵書愛?書物へに愛、の後始末。しかしまあ息子であるぼくはかつて古書店に勤務もしたわけだから、その意味ではまだましだったろう。
 主人をなくした本たちの行き場が古本屋ですらなく、古紙リサイクル工場にも大分回ったし、いまも回っているのだろう。本は消耗品であると一般には見なされているが、なんというのか、所蔵品でもあり、また装飾品、つまりインテリアの一部でもある。
 この書籍の美的かつ実用的な使用法については、本を読むひとのあいだでも、賛否両論というか、否定的な論が多い、多かった。しかし、それはなぜか?
 本、というか知識への、またぞろリゴリズムだろうか、ストイックたるべし。本のようなものを「装飾」として使用するなぞ!実際、そのように意見するひともいた。またぼく自身、かつてそう思っていたこともあった。反動だろう。
 文学なんぞなんの役にたったのだ!焚書的行為も、あった。ぼくでない家族のものだ。焚書的行為、あるいは書物への憎悪というのは、実際これまでも耳にも目にもしたが、…状況が状況だったから、という片付け方もあるが…。
 コレクションねえ。人の肌をコレクションすることよりはましだと思われるが、いや実はやはり悪徳なのか?
 そういえばヴァレリーラルボーの「悪徳としての読書」はまだ読んでない。