プレゼンス、パウンド主義とブレヒト主義

カール・ドライヤーの上映会。
http://www.shin-bungeiza.com/allnight.html

この上映会のために、帰ってくるようなものだ。
映画見るひまもなにかとなかったこの二年。あーもう自分の好きなものを抑圧してはならんのです。
この二年は、まあ楽しくはあったのだが、いわば合宿みたいな感じ。つめこみというか。踊るのだーとか舞台だーとか、たしかにカネはかかるわ時間はとられるわひとからぼろくそいわれるだで、いいことひとつもないのだが、それでも作る過程における学習が楽しいからやってきた。しかしもういいかげん、メディアのこと考えた方がいい。
 エコノミー原則で考えるということ。
 デジタルメディア
 
 しかし、映画は映画で、もううんざりはしている。ドライヤーとかロッセリーニとかは別格であるが。

 綿畑
 を囲いこむように焼き打つ
 人生の針

 明日は福岡経由で東京。東京に帰りたいと、以前は思ったものだ。だが、なにも思わない。どころか、帰らなくとも帰ってもどちらでもいいという感じである。インターネットによるせいかもしれない。違うか、久々実家に帰省したからか。そうしてこのまま2ヶ月いると、さすがに人恋しくなって、どうにかしないと、と思ったものだった。20歳だとそりゃそうなるさ。実際、同世代の友人がひとりもいない(この土地を離れたせいで)という苦痛は、克服するのに努力がいる。友人がいなくてもかまわないと、大都市ではいえるが、地方でそれは、かなりきついのだ。
 弟たちが帰ってきた。おみやげの分配問題に誤差が生じた。ってどうでもいい。

 舞台芸術のメディア的制約下における絶対的限界。それを上回る上演の快楽。
 映画にうんざりするのはなぜなのか。舞台に見慣れてしまうと、今度はやけに映画がつまらないものにも見えてきたりする。これは思い込みとかの話ではないと思うが。やはり「なま」、ライブネスとかいうのだろうか、「生」?現前、プレゼンス、presentということ。cdよりコンサートがいい?音楽に関しては、そうは思わない。クラシックコンサートは例外である。ただ、クラシックというか交響曲は、ずるいというのがある…
 プレゼンス。のぼる屋のおばちゃんが天使であるということから考える。
 日吉館であれ、四天王のダンスであれ、サブライムタカマガハラであれ、プレゼンスには…、「体験」ということがある。しかしこれはなんだ。なんだといって、理論的に解明することがほしいわけじゃない。現前のフェノメノジーなどはいらない。
 どこに刺さっていくものがいいのだ。延々たる自問自答。パンニャーはらみった。
 先日確認できたように、世界史と生だな。ってなにがなんだか意味不明。といって、こういう場合、意味なんぞどうでもいい。
 パウンド主義。パウンドからゴダールにいたるセリー。
 20世紀文化をふたつに分けよう。
 パウンド主義とブレヒト主義だ。
 パウンドとブレヒトとを、それぞれ人物としてでなく原理として考えるということ。
 …しかしこの差異はたいした差異ではない。内ゲバみたいなもんだ。
 資本主義への抵抗。ふむ。
 パウンドとブレヒトのことを考えると、たしかに芸術による抵抗・闘争というのは十分成立する。これはどうしてこうなるか。つまりだらしない芸術主義のレベルにはない、ある表現衝動。それはやはり、怒りという感情が介入するからだろう。かりに怒りがなくなってみろ。なーんにも、ない、といいたいところであるが、…
 感情について。感情教育。感情戦争。
 

ル・クレジオ「巨人たち」書き込みあり。ここまでやってたのかという印象。
       「愛する大地」
       「逃亡の書」

 だぶりで購入しないようにメモるわけだが、いまついでに眺めていたら、全然、だぶりでも購入すべきであると思われる。