人間、身体、言語

石油について、ネットで調べる。石油って、古代の有機物の残骸死骸なようだ。
石油がエネルギーとして利用されたのは、とかいうことは、その手の本を見た方がいい。石油と人類。
 泥炭田。砂の下、泥の下、黒い油、マグマ。
 大地をひっくりかえす。大地の内臓。大地の表面、地表を、この惑星の、皮膚として考える。
 星の身体、宇宙の身体、あるいは文明の肉体(笠井叡「天使論」より)とかいういいかたは、通常はされない。それは「身体」の概念にまつわる事柄だ。身体をどう定義づけるかという。
 国体とか、なんだとか、社会有機体説だとか、人間個人のいわゆる身体/肉体をアナロジカルに類比し、個人のレベル、個人同士の関係のレベルを超えた、社会的レベル、国家的レベル、国家間の関係のレベルに、「身体」という概念を適用されることは、これまでもされてきたし、また実際にも、そのように観念されていもする。
 その場合は、「身体」というよりかは、「システム」という概念が使用される。
ここにはまた、有機体/無機(体?)とかいうこともある。有機とはたしか、生体としての機能をもった、という意味だったはずだ。理科(!)の話しに関しては、基本的に無知なんで、勉強しなくてはならないのだが(by ヴィットリーニ)。
 ぼくがいわんとしていることは、「身体」概念の適用に関して、たとえば地球の身体とかいうことは、たんに「アナロギー」で、鼻で笑うことと、感覚する連中へのとりあえずの疑義。そもそもそれがどんなに「科学的」で反証可能であろうとも、言語活動において、類比的認識、アナロジカルな置換の作業は行われているわけだから、それをたとえばおおがさだーとかオカルトだーとか文学だーとかいう批判は、そも批判にはなりえていないということだ。
 つぎに、では、「身体」の一般的な語用論的な了解のされかたにとらわれず、その語について思いを巡らすとすれば、「身体」への了解の仕方は、変わる。身体がなんであるかということを考えるときに、発想、思考の素材材料に、たんに一般的な意味での「肉体」に、ことを限定しない、といういわば作業仮説的な線引き?
 しかし、そうはいっても、星の身体、というときに、発想の基盤とされているのは、人間のからだである。…

 身体というより、「システム」として、「からだ」を考えることもある。
 
 「からだ」に、固有の事態とは、なにか。
 むしろ、生物学的生理学的に発想される「からだ」の了解よりも、人間が、関係を形成するうえでの、メディア=媒体として、考えるほうがいいかもしれない。
 私はこれまで、言語/身体というような分割/規準で考えてきたが、それよりも、優先的に考えるべきは、人間とはなにか、ということ。
これは、言語論的展開(といっても通俗的な意味であるが)とかいう言語主義と、身体主義の双方を、しりぞけることになる。
 ダンスや演劇で、身体は、舞台芸術の基本要素として、あたりまえ重要であり、またそのことについて、膨大な言説が生産されてきたし、いまも続いている。
 「人間」という軸で考えることは、前時代的とされる。これにはフーコーの「言葉と物」における概念史的な学説の、通俗的了解というのがおそらくは大きいだろう。いわく、「人間の終焉」。
 むろん、19世紀までの「人間」観念は、終焉したし、終焉するがいい。
 精神分析や、分析哲学、カンギレム流の概念史とかなんだとか、20世紀における分析の進展を無価値とすることはできない。
 だが、それでもなお、やはり「言語」でも「身体」でもなく、あるいは「自我」でもなく、むしろ、「人間」が、問題なのだ、と、いま、確認してもいい。
 
 そのように発想すれば、<歴史>と関与することができる。すくなくとも、作業のなかで。
 
 「文学/哲学」は、「言語」に還元する。ダンスは「身体」に…「からだ」に…、事を還元する。私にはそれが罠であるように考える。あるいは私の方が罠にはまっているのかもしれない。
 しかし、私は、自分がなにをやっているのかを、知りたいと思う。