豚骨、東アジアの帝国主義//パゾリーニと過去の力

「油田」打ち合わせ。スケジュール、超、厳しい。しかし、これが「条件」だ。
稽古がそもそも、できないということ。
本来なら、それだったら、上演をとりやめるべきなのだろう。
しかし、それはフェス側に迷惑をかけることになるので、できない。
もちろん、なんとか、のりきろうとは思う。
舞台につきものの、人事およびスケジュールというか、人事問題。
実際、舞台を上演するといっても、そのことで3分の1は時間も労力もとられる。

メディア的制約あるいは、ジャンル的制約?
ある「共同体」では、ある。
「サークル」とは違うと、学生ではない舞台人は、思いたいだろう。
むろん、学生にように、保証があるわけでない、というか、モラトリアムとして認知というか許容はされず、むしろ悪徳/背徳/反社会的あるいは負け犬あるいは脱落者の行動として、観念される。しかし、この図式はむしろむかしの時代にあてはまるものだ。
 …いまはまた、「サラリーマン」という観念がより流動化されている。あるいは、より階級構成が、厳密になってきている。「フリーター」という非正規労働者層について、西沢晃彦さんの地域社会学の授業で、レポート書いたな。ぐるぐる回っている。
 とまれ、円は、より大きい。「サークル論委員」でやったことが、「無為の共同体」論?というか、ヴィジョンというか、の、古層であった、ということ。
日高六郎のサークル論。「現代イデオロギー
○値段も、戦略のうち。アクセサリーの話し。

熊本ラーメンについて。キャベツ、もやし、豚肉、とんこつスープで、これはもしかしたら、とんこつラーメンの起源は、長崎のちゃんぽんじゃないか?と。
博多ラーメン、熊本ラーメン鹿児島ラーメン、とんこつラーメンの歴史。
韓国か?琉球か、台湾か?台湾ー琉球のスープは、とりがら、だと思うが。
 いずれにせよ、ちゃんぽんが、とんこつラーメンの模倣なのか、とんこつラーメンがちゃんぽんの模倣なのかは、意外と、実証できるような気がする。
 ちなみに辛子メンタイコは、もともと下関の発案らしい。韓国経由あるいは、在日朝鮮人の食文化。
 また、佐世保コマは、佐世保が起源だ。それがコマとして、博多で売ってあった。
いいたいのは、博多の商売のうまさ。なんでも博多起源にする。そのうち、博多バーガーとか出てくるか?
 とまれ、料理の歴史とかを考えると、あるいは、九州にいると、実感としても了解できるのは、朝鮮文化との交流の深さである。
 在日朝鮮韓国人への差別問題も、3世代目となり、だいぶん解消された。サブカル的交流のおかげか。
 朝鮮韓国と日本との軋轢は、もちろん、近代における日本帝国主義の歴史があるわけだが、豊臣秀吉が、朝鮮「征伐」といったときにも、すでにあった。
 とまれ、日本、朝鮮、中国、台湾、などの東アジア社会における、近親憎悪あるいは近親戦争とは、なんだったのか。
 帝国主義の歴史。東アジア社会における
 モンゴル帝国からの侵略から、奇跡的に防衛できた日本。
 なにかの本で、たしかシェレールだ。ヨーロッパの植民地主義時代において、日本の鎖国政策と、中国の制限貿易は、賢明であったとの記述があった。
 しかし、イギリスにせよ、島国というのは、地政学的に、有利なのか。

 肉食文化と政治の歴史
 
 食文化と政治
 
 料理と政治。

 砂糖の消費と近代社会の形成とについては、マーシャル・サーリンズが論文を書いている。「甘さの悲しみ」だった、たしか。
 砂糖、アメリカ、コカコーラ
 甘味の悦楽と殺人者…

 アヘンについて。
 シュガー・ドラッグ。
 
 コールリッジ トマス・ド・クゥインシー。
 イスラム戦士、アサッシヌス。
 「アロアディネ伝説」と「山の老人」
 ハシッシと人工天国。由良君美「夢のフーガ」in「泰西ロマン派文学」p28
 
■ドライヤーの圧縮。 

パゾリーニのための。

過去の力。残骸の、層のなかに触手。
黄色い太陽も潰された。
オスティアの浜辺に打ち捨てられた一体の体。
泥棒と間違われたこの詩人は、ヴィヨン、ランボーの正統なる嫡子であった。
泥炭土のような呪詛の海のなかで。
罵られ、異端審問を生涯受けつづけ、
社会に殺害されたパゾリーニ
パゾリーニはサドを模倣したのか?
弟をパルチザン闘争のなかで失い、
公式左翼の欺瞞を提示し、
<真正性>という油田のなかへ身を投じた

農民、都市下層民、第三世界の、「民衆」。
民衆の声voxを聞こうとするものは、今日いるか?
最下層の「現実」とは?
それが何だというのか?
神の声も、民衆の声も、聞こえなくなった、わたしたちの耳
搾取はますます匿名化している。
開削機の嘆き。

「わたしは過去の力である
わたしの愛は伝統にのみ由来する
廃虚から、教会から、
祭壇の壁画から、
アペニンと前アルプスの忘れられた村から、
わたしは到来する、兄たちが生きたところから。
わたしは狂人のようにトゥスコラナを彷徨い、
野良犬のようにアッピア街道を廻る。
そしてわたしは成長した胎児として、
いかなる現代人よりも現代的に
兄たち、もはや存在しない兄たちを探し回る」
プリンス、around the world in the day
「分裂のむこうには、歴史的調子があるだろう」
「真のファシズムは、お人好しの社会学者が「消費社会」と名付けたものである、と私は心からそう考える」
「独裁的文明としての消費文明」
消費社会は、ファシズムを完全な形で、実現したのだ。
憎悪とスキャンダル
「私の考えでは、真の不寛容とは、消費社会の不寛容である。高みから授けられ、高みが望んだだけの容量しかない不寛容である。それは、真実最も陰険でもっとも冷酷非情な、最低最悪の不寛容の形である。なぜならそれは寛容の仮面をかぶった不寛容だからであり、本物ではないからである。そして権力が必要を感じるたびに廃止できるものだからであり、反ファシズムの様式がそこから生まれる真のファシズムだからである。不寛容は、無益で偽善的で、本質的に、体制のお気に入りなのだ」

この懐かしき、産業以前の、農村社会。しかしもはや失われた…より巧妙に構造化が進展している。

拠り所、闘争の拠点。