ヴィットリーニ

ヴィットリーニ。「政治と文化」

「わたしはイデオロギー的な契機から共産党に入党したわけではありません…
入党したときは、マルクスレーニン、あるいはスターリンのわずか一冊の著作さえも読みうる状態にはまだいなかったのです…わたしは大学での教育というものを受けていませんし、中学へすらゆかなかったのです…わたしが知っていること、あるいは知っているつもりのことは、自分一人で学んだものなのです…」
シラクーザの青年労働者グループ。「…わたしたちは、読解のどれほど困難な書物も恐れませんでした。…ヴィーコ「新しい学」。…一回読んで何も分からないときには、もう一度読みました。すると、何かが分かったのです。今度読むと、さらにもう少し分かりました…」
「しかもこの勉強仲間たちは、毎日八時間の肉体労働のあとに、この勉強を行っていたのです…」
「わたしは、入党によって、ひとつの哲学に加盟したわけではないのです。わたしは、闘争に、そして人間の集団に加盟したのです…」
アラーリオ・アリカータ
「…かれらは、わたしがそれまでに知っていたすべての人間の中でもっとも立派であり、…もっとも誠実で、もっとも真面目で、もっとも感受性が豊かで、もっとも毅然としており、それと同時にもっとも陽気で、もっとも活き活きとしたひとびとでした。わたしが共産党に加入したのはこのためなのです。」

「「きみがマルクス主義でないなら、どうしてきみは「ポリテクニコ」誌をやっているのか?どうしてきみは書くのか?…」おそらくこの人々は、わたしがマルクス主義者ではないのだから、あるいはそれを自称しないのだから、わたしが真理を所有していないと考え、首尾一貫したコミュニストであるためにはわたしが語るのを差し控えるべきだと考えているのです。…だが、…人間にとって、語るための権利は、彼が真理を所有しているということから発するものではないのです。その権利は、むしろ彼が真理を求めているということから発するのです。そうでないなら、禍いあれです。この権利を、真理所有の確信に結び付けようとするなら、そうした考えに禍いあれです。」
真理を所有しているのだという厚かましさ…説教師、演説家、アルカディアン、探究することをしない人々…
プロテスタンティズム以前の、教権的クレリカルな…
マルクスが彼の方法を用いてブルジョワ的なすべての形式と絶縁しなければならないと考えたとすれば、それはまさにマルクスが彼の方法は所有の方法ではなく探究の一方法であると考えたからであり、すべての言葉は所有でなく探究にならなければならないと考えたからにほかならないのです。」


キーワード作成。
エリオ・ヴィットリーニ Elio Vittorini (1908-1966)

■イタリアの作家/批評家。

■年譜
1908年、シチリアシラクーザ生まれ。
ヴェネチア地方で労働者として生活するかたわら文学修行に専念する。
1930年、フィレンツェに移住。
1931年、「15分の遅刻」「私の戦い」等、八つの短編からなる「小市民Piccola borghesia」を発表。一躍当時のイタリア青年作家の指導者となった。
1933年、ロレンス翻訳開始。〜1941年まで、ポー、サローヤン、フォークナー、スタインベック翻訳。
1936年、スペイン戦争。文学上の反ファシズム運動開始。
1939年、ミラノに移住し、共産党地下組織に加わる。
1942年、翻訳「アメリカーナ」
1943年、逮捕され投獄。釈放後、ミラノで、ファシスト政権のもと、レジスタンス地下抗戦運動の組織に参加するとともに、象徴的表現をこらしてファシズムの非人間性に挑戦する作品を発表。
1945-47、「Politecnicoポリテクニコ」創刊。共産党と対立。
1949年、共産党離党。
1950年、「ガリバルディーナ」執筆開始。
1959年カルヴィーノとともに「メナボ」(1959-1967)発行。
1966年、2月12日死去。
■作品
「Piccola borghesiaプチブル」1931
「Il garofano rosso赤いカーネーション」1933
「Il Viaggio in Sardegnaサルデーニャでの旅」1936
「Conversazzione in Siciliaシチリアでの対話」1941
「Uomi e no人間と人間にあらざるものと」1945
「Sepione strizza l'occhio al Frejusセンピオーネのまばたき」1949
「Le donne di Messinaメッシーナの女たち」1949