人類学的真正性、神

ビール飲んで、ほやほやしている。本を整理しながら、ぱらぱら読んで、へえとか思ったり、そうかこんな本もあったかとか思いながら、つまり本いじりを肴に、酒飲むことが、ぼくはたぶん、一番好きな、至福の時だ。元来、ぼくはそういうひとだ。本当は、踊りなんてやる柄じゃない。人前に立つことなんて、なんて恥ずかしいこと!とか思うというか感じるから、化粧なしに舞台に立って、他人のまなざしに身を晒すことはできない。でも、一方で、これが自分でも不思議なのだが、いわゆるガリ勉でもない。あるいは実学つまりなんらかの実効性という目的のもとになにごとかをやるとか、勉強するとかは苦手である。ただたんに、読書あるいは知ることの悦楽に浸ることが好きなのだ。しかし時間は残酷にも過ぎて行く。そこで葛藤が始まるわけだ。あるいは、始まったわけだった。一生、労働という苦痛に身を呈することをしない人間は幸いだとかいわれる。日雇いの土方をやっていたころ、憎しみや空しさや後悔の念によく襲われたものだ。こんなことになるとは、と怒る気にもならず、ただただ自分のふがいなさに、この惨じめさに腹を立てていた。だが、実際には、腹を立てる前に、お腹が空いて、なにを食べようかとそのことばかり考え、どこかの食堂に入り、飯を食えば、それで問題が解決されたものだった。とはいえ、日雇いの肉体労働って、体力的にはきついし、終わったあとでは、自分の体が粉のように感じられるのではあるが、それなりの楽しさはある。スポーツというか体育会系の部活的な、マゾヒスティックな快楽とでもいうべきか。話がぽんぽん飛ぶのも、それなりにぼくが壊れているからでもあるが、まあどうでもいい、というか、いまはほやほやしているのだ。ホヤ貝って、故人sさんに導かれ、こんなうまいものがあるのかと一時期はまったな。高級ホヤ、つまり新鮮なホヤ貝、むちゃくちゃうまいと思う。カキよりうまいと思う。あの苦味というかくせというか個性は、ビール、コーヒー、煙草の、美味としての苦みに共通する。しかし、新鮮でないほやはまずすぎるくらい、まずい。

 はー。義堂周信、絶海中津。寺田透。実家に送ろうとしていたものだが、こういうのもやっぱりいいものだ。
 パウンドーパゾリーニ関連の本読んでいると、「人類学的真正性」(パゾリーニ)の感覚になるもんで、日本ー東アジアー南アジアー西アジア…とかなってきて、また学生のころに戻る。アジアねえ。人類学的視点からすると、ヨーロッパもアジアもアフリカもなくなる。国境なんてけちな話しにすぎないわけで、文化伝播なんて、いまのサブカルもそうだが、いとも簡単に、国境を超える。
 これは相対主義ではあるのだが、方法論的相対主義というか、あるなにかの対象を限定し、それへの絶対主義(というべきかは知らんが、とりあえずの方便として)的なあるいはフェティッシュな固着へ向かうベクトルに対し、横槍のようにし介入してくるようなもの、感覚である。
 それを他者性とかいってもいいだろうが、やはりこれは外せない。あるいはこれは性格的なもの、気質的なものも関係するのだろう。
 人類学的には、キリスト教には、大変、興味がある。だが、たはりモニズム一神教にはなれない。けっこう長い間、一神教的に、「神」を求めたもんだった。いまでも求めはするというか、「神」と想像的に対話することはやる。
 まあ神といっても、それはミューズ詩神だったりするわけだが。
 洪水なり地震なり火山噴火なり、天災は、神の罰、とか考えるひともいるが、一瞬、神様、あんた余計なお世話だよ、とか思いつつも、あんまりの悲惨な状況を見知ると、おとなしく、そうか、とか思ったりする。「そうか」って、納得?いや、まあ、人間の無力さでしょうか。なんにもできないよね。はがゆいけど。関東大震災が起きる!とか言われて久しいし、いつかは起きるのだろうが、どうすることもできない。地震から逃れたところで、それは予防にすぎず、逃げた先で、意図せざる災いも、ふりかかったりするだろう。
 パニック。カタストロフィー。
いつ死ぬか事前に分かれば対処もできるのだろう。しかしそんな甘ったれ(?)たこといっても、埒はあかねえ。
 それなら、いまやるべきことをやる!なんて、思いはするが、やっぱりどうでもいい。この無関心という「達観」あるいは「悟り」、たぶん、持「病」といっていいな。
ぐだぐだ…
 



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フェリックス・ガタリ『「アンチ・オイディプス」草稿』刊行さる

フランスでは今月、レオ・シェール出版社のインプリント「リーニュ・エ・マ
ニフェスト」社から、フェリックス・ガタリの『「アンチ・オイディプス」草
稿』が刊行された。これは1972年に公刊されたジル・ドゥルーズとの共著『ア
ンチ・オイディプス』(日本語訳は河出書房新社より)の原稿作成途上におい
て、ガタリからドゥルーズに宛てられた草稿やメモをまとめたもの。共著にお
いてどの文章がどちらに帰属するかを一切重視しなかった二人の「共同作業」
の裏側を垣間見る、非常に貴重な一冊となろう。序文はステファヌ・ナドー。
510頁の大冊だ。アラパージュやアマゾン、フナックなどのオンライン書店
購入できる。ISBN2849380237で検索するか、著者名Guattariで探せば見つかる。
なお、批評家のロベール・マジオリが「リベラシオン」紙に寄せた興味深い論
評(仏語)が、『ミュルティテュード』誌のウェブサイトでも読める。

http://www.alapage.com/
http://www.amazon.fr/
http://www.fnac.com/
http://multitudes.samizdat.net/article.php3?id_article=1871