手、墨子

kairiw2005-03-04

リハ、結構、進んだ。よかった、って、また呑気に気抜いてると、痛い目に会うことになる。
それにしても、ダンスに限らないだろうが、まったくもって、作る過程は、「耕し」である。ただひたすら。しかし、創作過程を「チェス」に喩えるひともいるだろうに、どうしてまた、「農耕」なのか?
もっと洒脱にやれないもんかねえ(笑)。種植えて、枯らして、別のところから芽が出てて、どうのこうの…。そんなに、「大地」とかを意識しているわけでもないのに、って、やっぱり意識しているか。
まあでもなんに喩えるにしても、「手作業」であることは変わらない。それは今日でもなお、というかこれからもずっと、書くこと、考えることもまた、「手作業」であることに変わりはしないのと同じだ。って、なんかハイデガーっぽいな。ハイデガーから逃れたいのに、20前後のころ、はまってしまって、ハイデガーの種子が、植わってしまっている。ブレヒトとやっとこさ出会えたおかげで、中和させることができそうなのに、どうも、これは、おそらくはぼくの出自、故郷、風土と関係があるのだろう。といっても、九州に戻ったときに、ハイデガーを読みたいなんて、思うこともない。西九州で読まれるのは、イタリアか、ラテンアメリカだ。読書にも「ノリ」がある。それは例えば、旅行先で読みたい本と読めない本、電車内で読みたい本とそうでない本、部屋で読みたい本とそうでない本、etc.といった分割線が引かれるときに、読書という行為と、それの環境としての空間との組み合わせ=関係において、見ることができる。
 例えば、建築的に読書するひとがいる。研究者がそうだ。この類型のひとは、おそらくは環境には左右されない…いや、すでに環境的な条件をクリアしたひとが研究者的であるのか。
一方、ぼくは、ただ「ノリ」でいく。たぶん、音楽的にそうしている。それで、定着することもなく、ずっと不安定に移動しつづけるようで、似たようなところを旋回している。先日、誰かとも話していた。ひとまわり年取って、人生はスパイラル状に軌跡を描くってよくきく言い方、だが、いまはたしかに、納得できる。
 自分の言い方がハイデガーくせえと感じて、そういっているのだった。こうもいえる。それはぼくが「田舎」の人間であるから、田舎で育ったから、都市的感性にいまだ生活文化的になじめていないのかもしれない。田舎で育ったから、「田園」のイデアなど持っていない。憧憬もない。ただ、田舎にいくと、ああいやだなと思いながらも、そこに住んでる自分を発見する。ん?いや、そこに「落ち着く」とすれば、そこにはやはりイデアによる感覚があるのかもしれない。しかし、やはりそこには耐えられない。だから、亡命するしかない。しかし、亡命先がない。言い古されたデラシネマン。
 それで?今日は、膝が痛かった。

ブレヒト経由で墨子。本田済さんの。パウンドが孔子が好きで、なんだかなーとか思ってたら、G・S・フレイザーが、東京で奥さんが倒れたとき、通行人が誰も助けに来なかったことをもって、儒教という服従の体系というやつはイカンといって、パウンドは書物からのみ孔子儒教と出会ったにすぎんといっていた。パウンドが書物からって、当たり前(笑)。それに、孔子を書物なしに「体験」することはできない。と、ここで思うのは、フレイザーの体験が、一般化に値しない体験ではなく、ぼくも体験したということだ。数年前、チャリを飛ばしていた。で、通行人がいたので、よけようと、ビルの敷地に逸れようとした。その瞬間、宙返り。チェーンが見えなかったのだ。幸いなにもケガしなかったが、コケて、アイタタといっていたら、道路を鋏んで反対側を歩いていたおそらくはアメリカ人の男性が大丈夫かと声をかけてきた。サンキュウ、ノープレム、ハハハと応えながら、彼の奥さんがケゲンな顔して、ほっとけばいいのに、みたいな顔をしていた。あとから後ろから来ていたaから聞くと、こちら側にいた日本人通行人は「当然」、無視。こういうことがあると、西洋の騎士道精神を感じつつも、他方で、六本木のマリンのくそ野郎を思う。いやはや、まあ、でもたしかに、日本人はクールというか、非情ではあるだろう。一般的には。それで思い出すのが、酔っぱらったリーマンを、その男の知り合いでもない(なぜならすぐに立ち去ったから)別のリーマンが、頭を足で蹴ったことを見たことがある。その酔っぱらいは、気付いていなかったが。
 それはともかく、パウンドが孔子で、ブレヒト墨子(「メ=ティ」)。で、墨子の「兼愛」。儒家の愛は「別愛」。「兼」か「別」か(論理学での類と種に対応するらしい)。「別は非なり」と。ざっと走り読みした限りで随想すると、なるほどこれは「区別」好きの人間(いままでなんども「差別」はだめだが「区別」はいいという通俗的なあるいは一般的な言い方を聞いたのを想う)はやはり儒教の影響下にあるわけだ、と。以前、ある社会人の勉強会で、丸山真夫の「日本政治思想史研究」の講読をやったときも、どうにも(日本の国教としての)儒教が好きにはなれなかった。別に「好き」になる必要もなかろうが、さりとて魅惑もされない思考形式をあえて勉強する気も起きなかった。墨子、いけるかもしれない。東アジアのヘテロドクシ−。「非攻」論=戦争論って、サルトルかニザンかがいった「ひとりが誰かを殺すとそれは犯罪とされるのに、国家が戦争することは正義として正当化される」という内容の有名な言葉の種本かもしれない。
 また、吉川幸次郎さんの中国文学入門。屈原。「離騒」:「時は曖曖としてそれまさに罷れんとし/幽蘭を結びて延く佇む/世はみだれ濁りてさだかならず/好んで美を蔽いて嫉妬す/朝に吾はまさに白水をわたりて/ロウ風のやまに登りて馬をつながんとし/忽ち反顧して流テイしぬ/哀し高き丘にも女は無し」

会津八一経由で、李賀を、幸田露伴経由で蘇東波を読もうとして、頓挫していたことを思い出す。これで、読む機会が出来た。中国か。