広がり、スケール

ストラヴィンスキーの「春の祭典」に打ちのめされて以来、そのファンになったぼくとしては、同一様式にあると聞いて、図書館で借りる手間も我慢できずに、たまらず、セルゲイ・プロコフィエフ「スキタイ組曲」購入。24才のときの作品。1914年に、バレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフによる委嘱で、「アラとロリー」創作、翌年、「スキタイ組曲」として仕上げる。さすがに「春の祭典」には及ばないが、同時代を呼吸したものにしか作れない、魅力がある。で、セルゲイ・エイゼンシュタインの「アレクサンドル・ネフスキー」のサントラをカンタータに改作したのも入っていた。こっちの方が面白い。この「アレクサンドル・ネフスキー」の「氷上の戦い」、ジョーズのテーマ曲のネタだろう、たぶん。というか、影響されたんだ、というか、聞くと、ジョーズに聞こえると思う。ぼくが初めて買ったレコードは「ジョーズ」だったのだが、それはやはり、あのズンズンズンという迫り来るリズムに痺れたからだった。と、こう書いて、なるほど、ジョーズ体験が原型の器となって、「春の祭典」にああまで感動したのか。
 ところで、「セルゲイ」って、ロシアではメジャーな名前なのだろうか。

また、バロック・トランペットも。ヴィヴィアーニとかファンティーニとか、これはsさんに教えてもらっていたフレスコバルディ、アイゼンナッハとか、ペーツェルとか、知らないひとばっかりだ。でも、相当、いい。古楽、数年前よりはまっては中断、はまっては中断。でも、観念史とかと同じで、金と気力が持たない。
でも、面白い。西洋中世に限らず、遠い話しは単純に、広がりが気持ちいい。といって、ある程度、近付けないと、また方向感覚がおかしくなるから、アブナイ。

吉川さんの続きで、元曲。元の時代の雑劇、民衆演劇。元ってモンゴルだ。あー、中国史勉強したくなってきた。「胡蝶夢」。裁判劇。プレマールというフランスの宣教師が翻訳した「趙氏孤児」が種本となり、ヴォルテールの「中国の孤児」になったという。ブレヒトが中国にはまっていったいきさつはまだ把握してないが、アレゴリーということからいっても、かなりヴォルテールの影響があるように思える。
 諷刺精神にある独特の軽みの強さ。たんに、イロニーというのではない。
距離の感覚、あるいは自己をも含めた対象化、ということか。中国といえば、ライプニッツも、易から、論理学上のインスパイアを受けている。バルトークもあるな。マオイズムの前史。
 
で、もともとはパウンドがもろ中国をやっているので、ということだった。それで、ふっとゲーリー・スナイダーを思い出して、繙いた。パウンドの弟子といえばギンズバーグやオルソン(オルソンはパウンドに対しては愛憎関係だったようだ)がいるが、スナイダーさんはなんというか、独特の健全さで、東アジアにはまってきたひとだ。スナイダーさんの講演は、2度ほど聞きにいったことがあるが、とくに、ドイツ文化会館での、アイギさんと、ドイツの若い名前を忘れた詩人のシンポで、ぼくが「今日のマクドナルド社会で、ダンテはいかに読めばよいのでしょう」と聞いたら(いま思えば、それは「現代」のアレゴリーとして読むしかないのだが)、アイギさんには意味が通じなかったが、スナイダーさんは一番、真面目に答えてくれた。懇親会でもにこにこしてくれた。いいひとだ(笑)。いや、それで、スナイダーさんの詩は好きなのだが、彼の論文集も、魅力的なのだが、こうして、パウンドに付き合ったあとで、読むと、毒気がなさすぎる。パウンド爺さんの魅力、それはだれよりも感情が過剰で、その意味でも、ロマン主義の先端で、破裂したような感じがするし、処刑されかけたが、おそらくは医師の良心的な判断による精神異常の診断のおかげで、死をまぬがれ、そうして、絶望のなかで「ピサン・カントーズ」を綴り、戦後、ずっと、絶望しつづけた。その絶望の深さ。いや、「深さ」ということでは、カフカがいる。絶望の「壮大さ/広さ」とでもいうか。
 最近、当然「油田」にむけての言語素材として、インスパイアされたいと思い、毎日、パウンドを読んでいるのだが、その裂け目の入り方に、なんといえばいいか、驚嘆しているわけでもなく、その裂け目を、眺めているといったほうがいいだろうか。以前、エイヤーのラッセル論で、構成と分析とはベクトルが逆であると教えてもらったが、それでいくと、ジョイスは構成に向かったのに対して、パウンドは、あれは分析しているのだと思う。凝縮モデルと拡散モデルとの対比として考えてもいいかもしれない。散って行く。
パウンドは後にカントーズを、すみからすみまで、愚かな作品だといったらしい。年譜によると、1959年、74才の時、「詩編 天堂編」を刊行したのち、ラパルロにオルガ・ラッジに移住してから、自作への懐疑が深まったという。74才からの自己否定。大野先生のようだ。1969年、84才で、アメリカ詩人協会の総会に出席したが、沈黙を通したという。今度は、ハイデガーの身振りのようにも思われる。
 それにしても、スケールということからいえば、最大のように思われる。