encounter

イマオペ「油田」リハ。DA・Mのリハ大詰めの隙間を縫う、まあ、超過密である。一生懸命、やるしかありませんが。それで、ようやくレールが敷かれた感がある。基礎構造がその姿を見せてきた。このままのテンションで進めば、今回、大傑作になる(笑)だろうに、ガンバリましょう。その前に、来週のDA・M、というか、明日の通し、頑張らないといけないが。
nさん回帰。

それにしても、とつくづく思うのは(Mくん風に)、「出会い」のことだ。encounter。そのひとが、このひとが、このようなことができるということ、このような人格であるということ、このようなことで笑うこと、あのようなことで怒ること…それが実益の伴わない、無為の共同作業のなかで、そのようなことを認識、発見してけること、これこそが舞台芸術の醍醐味である。この面は、とくに舞台芸術に限定されることもないが、複製技術時代にあって、いまだ古代的な手作業で進行させるほかなく、また、ライブ性のゆえ、なまものでもあり、偶発性に他の諸芸術よりも晒されている度合いが強いこの領域の特性といえるだろう。あるいは、その弱さ=ヴァルネラビリティゆえに、無償の、それゆえ、より「遊び」の本質に近接していると、海上さんの「だからー!!」という声が聞こえてきつつも、なおそう思える、今日の実感。別にぼくは舞台芸術至上主義でもなんでもない。幼年期より集団作業は苦手だった。生っ粋の個人主義者と自分では思っていたぼくがそのように「関係」の感覚を気にするようになったのは、いま思えば、やはりマルクスあるいはマルクス主義の「教義」によるものだったのかもしれない。
 とまれ、現時点では、この「関係」の生成に、大袈裟ではあるが、奇跡のようなものを感じている。
って、なんかジジイくせえなあ。でもそれが実感ではある。迂回しながら、ぼくは「共同性」ということを思考しているわけだ。それにしても、このような「関係」を完全に断ち切った、完璧な個人主義というのは成立するのだろうか。文人なり作家なりのいう「孤独」にしても、それはたとえば、言語の歴史という、それはそれでまたひとつの共同体に、帰属せずには、成立しないだろう。ベケットの世界に、いわば絶対的な孤独を認めるとしても、ベケットは豊かな言語の歴史に、まっとうなまでに、帰属していた(※)。
 そういえば、亡き父への追悼は、そのような内容であった。あの追悼文も、紛失してしまった。

(※)そこでいくと、以前より感じ最近さらに感じるのは、モダニズムにおける「ダンテ共同体」とでもいうべきもの。イェーツも、パウンドも、ジョイスも、ベケットも、パゾリーニも、カルヴィーノも、ってきりないが、みな、その「共同体」に参画している。というか、そこに住んでいるような印象がある。先日も書いた、アイギさんやスナイダーさんやドイツの詩人も、みなダンテについては長い話があった。それで、ぼくはどうかというと、やはり日本語訳が悪いというわけでないだろうが、いまだ通読できないままだ。「油田」終わったらやろう。と思ったら、今度はバルザックか。ふう。pさんとの、あるいは「コラボレーション」の理想型というのはどのようなものがあるのだろう。