ゴダール&ミエヴィル

そのあと、新文芸座で、ジャン=リュック・ゴダール&アンヌ=マリー・ミエヴィルの「右側に気をつけろsoigne ta droite」「勝手に逃げろ/人生sauve qui peut(la vie)」「こことよそici et ailleurs」「うまくいってる?comment ca va」。ヴィデオで見たきりだったので、見てよかった。やっぱり、映画は映画館で体験しないと、どうにもならない。音響効果といい映像のサイズといい、ヴィデオで見るのと、全く、印象、というか経験の質が違う。テレビとヴィデオ、もしかしたら、このまま買わない方がいいのかもしれない、なんてこともないが、やはり映画館には、改めて、行くようにしよう。でもまあ、このオールナイトは安いからいいものの、あれ、それぞれ1800円とか取られたら、やはりきつい。映画の料金、高すぎ。1000円にしてくれれば、いいものであれば何度か見ることができるのに、1800円だと、どうしても、一度きりだ。料金でいえば、先日、nさんと話したときも、助成金が全体としては増加しても、中間層(つまり劇場や制作費)に分配されるだけで、観客=大衆に還元されることがないという話題が出た。その意味で、カストルフはA席で4000円というのは良心的だ。日本の劇団で5000円とか取る不条理もあるが、ぼくは基本的に、5000円も、絶対に出せないので、まず、見ない。太陽劇団の8000円もぶーぶーいわれたもんだったが、彩の国はいまだ高額。それで赤字とかいう。あのー、敷居を低くしないと、動員数がのびるわけないんですけど。そういうこと考えないもんなのか?常識というか、経済で考えてないんだろう、結局。…
とまれ、ひさびさのゴダール、再び、魂打ち震える。大体、振り返れば、イマージュオペラのイマージュって、ドゥルーズゴダールだから。とくに、ゴダールだから。ゴダール「映画史」の衝撃なしに、ぼくが舞台に関わることは、少なくとも、関わり続けることはありえなかった。以前、ヴィデオで見た時には判然とは了解できなかった「右側に気をつけろ」の重要さ。最高だ。ほとんど、泣いた。まったく、なんというひとなのだろう。圧倒的な速度。しかも正確で無駄がない。他の三本でのミエヴィルのすばらしいつっこみにも驚嘆。執拗な思考と分析以外に、道はない。ゴダールもまた王道。

http://www.geocities.com/Hollywood/Cinema/4355/

アラブの少女の抵抗詩の朗唱は、フランス革命での市民会議のさいに産れた「演劇」の形式であるという指摘。教条的綱領が刷り込まれる、反復される。あの文盲の「美しい」女性(おそらくはミエヴィルの声で、どうして彼女が美人であることに触れないの?)はまた反復朗唱が終われば、日常の反復労働に戻る。収容所にて、まったく役にたたない人間は「回教徒」と呼ばれていた。

…手作業を。タイピングするこの手を。…ミエヴィル/ゴダールの視点。まなざし。

以前、手について触れたがhttp://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050304ハイデガーの手じゃなくて、ゴダールの手もあるということ。

ミラン・クンデラの「笑いと忘却の書」が、引用されていた。べーはクンデラの「中欧」概念の地政学的含意について、かつて憤っていた。「クンデラごときが!」と。クンデラか。しかし、ラミュにしろ、ペギーにしろ、ヴェーユにしろ、マルローにしろ、ゴダールって、すこし「ずれてて」、その「すこしずれた」感じが、魅力のひとつでもある。「ずれ」というのは、日本の読書文化においては、なかなか引けない線を引くということ。ラミュは、むかし翻訳が出てたようだ。ストラヴィンスキ−も、ラミュの友人だった。「徴しはいたるところに」