action

◎’ ひさびさ、とろーと休息。もう、連日、リハ、リハ。一日中、ヘンなことばっかり、考えてると、へへとへとになる。思うのは、ぼくは、結局は、一般言語、つまり、話し言葉、台詞を、実際の上演では、あまり使わないわけだが、それでやってるのは、身振りとか動きの探究になるわけだけど、なんなんだろうかと。あ、これ、面白いとかって、要は、単に、それだけではあるんだが、かといって、ほんとうに、まったく、例えばテキストなり主題なりイメージなりとの対応関係がないと、それはそれで、面白くなくなる。これは結局、ぼくの関心興味がどこにあるかということに委ねられるわけだ。でも、あるひとつの動きが、あのテーマ、あのイメージに対応しているなんてことは、結局は、よく分からない。たとえば、空に向かうという時、手をあげるということが、これまで無数に、舞踊あるいは身振りの歴史のなかで行われて来た。まさか、いま現在、そんなお祈りやってもしょうがないから、そんなことを提示するわけではないが、これってなに?
ある現実のレベルがある。たとえば古代社会における儀式で、手を上げるとき、それは切実なんだろう。旱魃が続くと、ひとは崩壊する、だから、恵みの雨、降れ!って。それで、いま、そういうことを、ある程度近代化を経た社会において、その身振りを再現しても、それは模倣である。むろん、ミメーシスがなんであるかとかそういうアウエルバッハ(パゾリーニも何度か言及している)とかの議論/研究を踏まえるならば、もっと精緻に理解できるんだろうが。現実のレベルにおける身振り=行為のコンテクストは、現実であろう。では、表象=上演のレベルにおける身振りのコンテクストは?それはふつうには、表象(文化)の歴史が、まずはコンテクストとなる。歴史があり、いくつかの参照項がある。あるものは採用し、あるものは退ける。むろん、はじめは、ある作家/作品への模倣からはじまる。その後、その模倣から離れ、「独自に」やっていく段階がある。「自分なりに/わたしなりに」という段階。この段階で、自分の個人史的な背景/歴史が参照される。自分の感性、そしてそれを構成する「他者の言葉」(自分は好きな作家だったり)への再・遡及。あとはcoming and going 往還、行ったり来たり。ふらふらと、振子になったり時計になったり。そうして、「私」、現在でいえば、「イマージュオペラ=私」を、構築していく。晩年のフーコーが、「芸術作品としての生」ということをいっていた。こないだどこかの本で、その発想は、ファシズム美学であると論じられていた。(たぶん、ソンタグのレーフェンシュタール論。)その論を読んだときは、たしかにそうかもと納得した。しかし、その論点を忘れてしまった。その論点を、いま自分なりに補完するなら、未来へ向かうこの「新たな生」(ダンテやロラン・バルトの未完小説…)の方向性が一方であり、他方で、ニーチェベンヤミンのいう「運命」と関係する方向性もある。「運命」は「条件」なり「環境」とも、とりあえずは言い換えることはできる。幸田露伴の見取り図でいくと、<努力ー運命>。さて、この「新たな生」を構成していくこと、あたかも芸術作品のように、自分の人生を作って行くという努力に、いかに「ファシズム」が侵入するのか。これはまた「意志」の問題にもなるのでしょう。それにしても、「ファシズム」的なものを一切廃棄することはできるか?これも、むろん、問題図式を混同しているのだろう。ファシズムの問題は、それが個人主義と相克することを視野にいれないといけない。だが、これはイデオロギーのレベルである。イデオロギーとはなにか?それはダンスとどう関係あんのか?
 …今回の作品は、いわゆるダンスではない(と自分では思っている)。身振りの提示である。ダンスで求められる運動のクオリティも、今回は求めない、というか、それは主眼ではない。フォルムをいじくっている。最終的には「ダンス」は入ってくるだろう。あるいは、これが踊りだともちろん、言っていいんだろう。身体言語 body languageかなあ。でもまあ、やはり言語と身体との関係のなかで、くしゃくしゃやっていることには変わりない。しかし、あと2週間。どう考えても、間に合わない。まだ、未定ではあるが、現在の作業は、公演が終わっても、続行しよう。これってやっぱり、だめじゃん!って思い知るまで。
 で、これはやはり、行為である。そうなんだ、「身体論」にかつてはまりもしたが、身体も言語も、ひとしくメディウム=媒体であるわけで、身体の問題も、むろん面白いは面白いが、どこか、その方向性は違うような気がしていた。それで、yさんとかとおしゃべりした時に、記号とかなんとかともいっていたが、なにかが足りないと感じていた。それが、この「行為」のレベルだ。「意志」とか、「意識の志向性」とか、あるいは「欲望」「衝動」…いろんな言い方があるが、それが身体と言語をメディア=媒体=道具として、現実の時間/空間に、表出される。この表出、「表現」でもいいが、それはひとつの行為actionではある。
 しかし、古いというか、懐かしい概念だね。行為と関係の束。
 …行為と、環境への対応/反応と、とらえれば、たぶん、アフォーダンス論とかにリンクするのだろう。
 ただ、認知心理学によって自身の行為を了解するといってもそれは結局は、なんというか、形式のレベルの認識だ。行為主がいて、行為があって、関係がある…。そうした形式ー構造の認識も必要(かどうかは厳密には分からないが)なんだろうが、そこへ立つと、今度は、その行為の内容コンテンツが問題だー!となる。内容となると、テーマとかイデオロギーとか、思考ー志向(?)内容となる。イメージ、色、かたち、音、…これらマテリアルの組み合わせ。そうかー、欲望の形とか。感情とか。
 形式と内容の一致。それが「正確さ」の基準のひとつであるのだな。
 …それがどれだけ、破綻していたとしても、ある本質的なレベル(「本質」とは使いたくないが)、潜在的なレベル、…における「運動」。この潜在的運動(ととりあえずいっておく)を読めないと、パウンドなりモダニズム全般の解読は無理(なんじゃないか)。どこかを走る運動の線。
 
◎ぼくがなぜこうしたことを書くかについて。ちょろっとひとから聞かれたので。まず、こうしたことを「公表」するのはなぜかということについては、誤解されるリスクとかいうことよりも、このブログの機能、つまり、ノートとしての機能が、便利であるから、に尽きる。こんなうだうだ、自分のpcで打ち込んでも、あとで見ないどころか、紛失する。実際、いままで、いくらも紛失した。メモなんてそんなもの。別に、紛失してもいいのかもしれないが、こうした形で残せば、あとで振り返ることも、気が向けばできる。
 こんなぼやぼやしたぼやきメモを公表するのはどうかと心配される向きもある。しかし、まあいまは「しょうがない」。ブログのメモ機能を上回るものは、それはむろん、結局は、紙のメモであるが、それは場所を占有してしまう。すこしでも、書類を減らしたい。…本を減らすことが…いかん、また詮無いことを。