浜島嘉幸+クアトロガトス

浜島嘉幸さん、クアトロガトス。噂には聞いていた浜島さんのパフォーマンス、大変、感銘を受けた。オナニズムという主題(それだけではないだろうけど)の上演芸術としては、ある極限まで達していると思われる。アフォーダンス/知覚論/認知心理学の論文の朗読。典拠先の表示をガラス窓へ記述。蛍光ペンライトの蛍光塗料で、十字を描く。文庫本のページを一枚一枚、壁に張り付ける。裸体。センター移動のダンス。片足を台にのせる。分娩器具?と思われた。ティッシュ。こよりをなめる。…
 田中泯さんのソロを数年前、始めてみはじめた時、これは知覚の練習だ、と考えたことを思い出す。見始めたころ、なにもよく分からないのだが、なにかその微速の時間のなかでこちらはなにかをなそうとする。つまりなにごとかを考え出す。行為者は微速で動く。観客はなにかを考える。…しかし、その後、微速の上演遂行を見ても、あのような体験はない。おそらく、田中泯さんの微速が稀有なのは、その行為者の思考=模索が、伝わってくることによる。テクニカルには、おそらく、皮膚についての認識が、他とは違うのだろう。
 裸体パフォーマンスの世界的第一人者である田中泯さんの裸体をついに見たのが、昨年の「線上にて」であった。いま思い出しても、すばらしい表現世界であった。卓の下であたかもベーコンの犬のようなポージングが行われたとき、そのあまりの「正確さ」に驚嘆したものだった。
 その後、自分も裸体上演をやりたいものだと模倣意志が働いたものだったが、ついにアイデアと必然性に出会えないまま、現在において、裸体など上演遂行においては無意味だと考えていた。それが浜島さんの上演遂行によって、覆された。
 浜島さんはかつて舞塾に在籍しておられたらしい。現在は名古屋を拠点にパフォーマンス活動を展開しておられる。海上宏美さんに、日本一のパフォーマンスだと教えられていた。昨年の廃業シンポジウムでの打ち上げでの、朝方トークは、こちらは寝ながらも、おもしろいなーと、飛んでくるつばをよけながら、思ったものだった。廃校となった小学校でのパフォーマンス。観客は海上さんのみ(笑)。学校の怪談。最高。
 今回のパフォーマンス、浜島さん的には納得いかないものだったらしいが、初見のわたしにとって、十分、そのすごさを知ることができた。
 終演後、浜島さんに田中泯さんを想起しましたと伝えたら、今回は古典的なものをやってみたかったとのこと。
 クアトロガトスは、まず、べーが、ガラスに紙を張り付ける行為というかその姿が、笑えるのだった。うーむ、ベーの存在-現前は、やはりベケットを(笑)具体化したものだな(笑)。かつて大野スタジオに連れて行こうとして渋谷のブックファーストで待ち合わせたとき、本に手を伸ばす、その手の所作あるいはその震えが、大野一雄先生を想起させたものだった。かくもベケット的な身体を所持しているがゆえ、わたしは、「トラクトア/トロープス」に、パフォーマー/ダンサー/行為者として出演を求めたのだった。麻布での夜中の稽古のときの、ラストシーンは、実際の上演では形を変えてしまったが、あれは最高だった。ペーター・ブロッツマンとのその相性のよさ。
 まんがの吹き出しのようなさまざまな文。文の抗争が提示されていくなか、キュレーターへのつっこみ対談を行う清水唯史さん。廃業シンポの時の上演が、その主題と上演との関係におけるリテラリズム(あるいは閉鎖状システム)がわたしにとって、なにか感性的に受容できなかったのだが、今回は、全編ユーモア(イロニーではなく。つまり清水さん自身が織り込まれたその形式において。)が漂うもので、そのユーモアはやはりわたしの好むところである。ジュネ、フェダマン、…。