「油田」とパイドロス:強度、表象、組織、イデア、生と形式 etc.

uさんより「トラクトア/トロープス」と比較対照したうえでの、ネタとベタについての御批判。ummmm、上演の強度はやはり条件的には求めることができない、のか。ummmm、しかし元来、わたしはコンセプト、あるいはイデアの強度を…いやはや、まあこれからますます問われるべきところ。
 たしかに、矛盾体としての共同体(日高六郎)というのであれば、その矛盾を全的に提示する必要がある。あるのですが、どうなんでしょう。相互了解はある程度のレベルまでしかいけない。そしてそのレベルというのは、たいてい一般的なレベルに落着いてしまう。それが「回収」だ…。
「回収」することなかれ、を命法とするのなら、相互了解など不可能であると前提して、押すしかない。

 強度に関する批判については、わたしは演出のレベルにおける強度において、答えていくしかないわけですね。…あるいは、それでも、対話的理性に賭けるべきなのか。

 
 強度批判としての「弱さ」の肯定。これはネタ路線(のみではない)。
「弱さ」を肯定するには、それが強度批判を通過したうえでないと、「回収」に落着する。
 あるいは、今日の「弱さ」を丹念に記述する仕方もある。
 これは「軽さ」の美学と言い換えることもできる。これは現在の時代精神でもある。それで…
 
うーむ、コントラストが不足した結果にはなったわけか。(それのみではない)
コントラスト法=対照法については、忘れていたというか、そうでないことをやりたかったわけですが。
 
イマージュ批判をイマージュによって行うというこの自己言及性について。これもにまた執拗な努力が要求される。
 そこに外部としての素材の扱いが絡む。

演出イデアを具体化、言働化する行為者、という構図。なんにしても、そこで生じるネゴシエーションの質あるいは強度が問われる。組織論、関係論の領域。
 実践の現場、これを実体とみなせば、上演はその再現前化。文字通り、re-present。

しかしなあ、最大週二日しか稽古できないという悪条件で、やはり強度は求められない。あと二年、みっちり稽古するといっても、そんな悠長なことはいってられない。むろん、この悪条件は、全般的にそうなのだが。

 「トラクトア/トロープス」はその異様なまでの悪条件が、黒い恩寵としてふりかかり、それとの闘争が、その時間を過ごす生を変容させたんだ、たぶん。結果、ベイトソン的なビリヤード世界、あるいはエイゼンシュタインの理念的なモンタージュが、成立したのだろう。あの上演を評価される方は、そのことを見ておられるのだ。それにしても、あれすら、公共的にはまったく無視されたわけですからねえ。
 だがあれはまあ、あの条件との闘争の質料あってのこと。またあれをといわれましても、まあいまは無理だし、今後も無理でしょう。なぜなら、条件が変わっているからです。私自身が、フォーマットを作り始めてるし、計算もしはじめた。またなにより、人事が厳しい。あまりの人手不足。それは私の問題か、。それで、だめだというのなら、まあ上演などやめるしかない。ここはむずかしい。
 理念的なレベルと、現実的レベル。いま私が「計算」といったのは、その現実的レベルにおけるもの。
 理念で押すというのもありだろうし、ほんとうに厳密にやるのなら、そうやるべきなのかもしれない。しかし理念は危険だし、人生が無茶苦茶になる。というか冷静に考えて、理念を押したとしても、まあ結局、上演は二度とやれないことになる。
 それでも、やはりイデアとともに生きるしかないのかもしれない。現実的条件との折り合いみたいな話しだろうが、時代精神とズレテしまっている私としては、そも折り合いなど、無意味。
 そうするとやはり狂気の愛あるいは愛の狂気しかない(笑)。byパイドロス

一方で、現実的レベル。このレベルにおいてやっていって、いずれ条件が整いしだい、あの理念的レベルに向き合うということもある。まあちゃんと、人集めしないとね。

 しかし十全ではなかった(いつものことだ)とはいえ、わたし自身が「油田」のなかでやろうとしたことは、むろん、部分的には、愛着するところ。

…たしかにな、いま「トラクトア/トロープス」を思い出していたが、あれは明らかに外からイマージュが飛んで来ていた。上演遂行においても、そうだった。というか、切片イマージュというか、イマージュのひとつひとつが、やはり正確であった。その正確さは、運動・流動への抵抗となっていた。結果、ネタとベタが文字通り拮抗していた(とはuさん、sさん)。
 
それにしても、練り込みによる強度を、生成あるいは現前させること、これにはただひたすら稽古、しかない。王道はない。まあまだこれからですが。

 なにをもって肯定するか。なにを肯定するか。これは言語のみでやる場合、すなわち思想において行う場合は、個人の領域で行うことができる(といっても、それもまたブルデューのいう「界chanmp」のなかでの話しではある。本当に徹底にあるいは純粋にやれば、アルト−やベーコンのように「界」より外へ向かわざるをえなくなる。)。
 しかし、こと集団でやる場合、そこにコミュニケイト・レベルの問題が発生する。関係の力学とも政治ともいっていい。あるいは倫理もまた問われるのだろう。
 私は事を大袈裟にいっているわけではない。ごく一般的な話題だし、普通の話しである。だし、問題はいつだて、世俗的なのだ。会社なりなんなりのあらゆる社会活動に共通する問題。
 で、私は愚痴を愚痴として収めたくない(「回収」したくない)がゆえ、自分のために、分節化しているわけだ。
 この愚痴というやつが、また日本社会固有の問題でもありますわな。すべてが「愚痴」として片付けられる。結果、批判など、発生しない。「愚痴」で終わりだからだ。結果、公共性のレベルまで、ことが進まない。あるいは、公共性が、成立していない。かつて社会学をやっていたころ、この愚痴を、解剖することで、それなりに先へと行けると思ったものだった。まあ、その後、荒ぶる生のカオスとやらに呑み込まれ、ついに潰されたわけだが。かく生は恐ろしい。重力と反重力。重力の虹が…。 はきだめか。
 
生ともまた闘う必要がある。それが、分からないが、形式なのかもしれない。
という(私のなかの個人的)文脈で、yさんとフォルマリズムについて。
formとmatiere
形相と質料

matterが語源のmaterial
matter:もの、こと。